『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』は2017年5月から2019年4月まで本ブログ管理者である平民金子が執筆し神戸市広報課サイトにて連載されたコンテンツです。現在神戸市広報課サイトに本コンテンツは掲載されておりませんので、このたび神戸市さんのご好意により本ブログへの転載許可を頂きました。記事の著作権は神戸市にありますが、書かれた内容についてはすべて執筆者にお問い合わせ下さい。本コンテンツに大幅に加筆をした『ごろごろ、神戸。』が株式会社ぴあより出版されています。そちらもよろしくお願いします。

第18回 いつもよりあたたかかったので

元町商店街の西側の始まりである6丁目。その手前の横断歩道で子供を肩車し、信号が青に変わるのを待っていると、横から声がかかる。「にいちゃん西元町の駅ってどこやろ?」見ると知らないおばあさんで、私は正面を指さし「そこやでほら。信号渡ってすぐのとこ」と答えた。「にいちゃんわたし関西ビル探してるんやけど、わからへん?」昔ならさすがにそんな細かいビルの場所まではわからへんわ、とでも答えていたんだろうけど今はスマホがあるぞ。「よっしゃ。ちょっと待ってな」とポケットに手を入れたところで初めて、その肝心のスマホを家に置き忘れてしまったことに気付いたのだ。「西元町の駅のすぐ近くらしいんやけどねえ……」まったく、よりによってこんな日に道を聞かれるなんて。いちおう近くの案内板を見ても当然ビルの名前などは書かれていない。スマホさえあれば地図アプリですぐに案内出来るのに、でもその日は外に出るといつもよりあたたかかったので、家を出た直後にわざわざ引き返し厚手のダウンジャケットから薄手のコートに着替えて、その時に脱いだダウンのポケットにスマホを入れたまま外に出てしまったのだろう。周囲を見渡して、同じように信号待ちしている中で、誰かスマホを見ていてかつ道を聞きやすそうな人がいないかと思ったけれどそういう感じの人はおらず、おばちゃんあきらめてくれ、今日はそういう運命なんやでという気持ちで「役に立てんでごめんなあ。携帯電話ないからわからへんねん」とその場に彼女を残し信号を渡ったら、なんと商店街入ってすぐ目の前のビルに大きく「関西ビル」と書かれているではないか。さすがにこれは引き返して教えてやらないと寝覚めが悪い気がするぞと来た道を戻り、いま渡ったばかりの横断歩道の信号を再度待つ。子供はなぜか機嫌よく私の頭をパシパシ叩きながら喜んでいる。あのおばあさん逆方向に歩いて行った気がするけど見つかるんかいなと青信号を小走りで渡り、探してみた結果なんの苦労もなくすぐに発見出来たのは、近くのコンビニで外国人の店員さんに声をかけていて両者ともに困惑している様子がわかったからだ。「おばちゃん関西ビルあったわ。ついてきて」これで3度目の同じ信号を待っている間、おばあさんは財布を取りだして、肩車していた子供に「お菓子買ってね~」と100円玉を手渡そうとしていた。それを受け取ってよいものやら判断しかねている子供に私は笑って声をかける。「儲かったな。もらっとき。バイト代やで!」「にいちゃんありがとうね。えらい親切にしてもろて」「お菓子代儲かったからええわ。ここやでここ、入口階段やから。ほな気いつけて」別れて私たちはそのまま商店街を歩いて元町駅に向かう。人の少ない電車に揺られて新長田の駅に着くと、開演まではまだしばらくの時間があったから、駅前の100円ショップへ。時間をつぶすためのおもちゃでも買ってやろうと思い「なんでもええで欲しいの選び」と言うと子供はおもちゃではなく生活雑貨のコーナーに行き絶対にこれが欲しいのだ、これじゃないとイヤなのだと水まき用の柄杓(ひしゃく)と灯油ポンプを手にしてキッと私をにらんでいる。きみなあ、買ってもええけど飽きるなよ、ずっと飽きるなとは言わんけどせめて家に帰るまでちゃんとこれで遊んでくれよと求められるがまま、水まき用の柄杓と灯油ポンプを買い与えたはいいけれど、案の定店を出た瞬間に「これ、今はいらないよねえ」と言われて、今の時期の子供には逆らうとすべてがぶちこわしになるのを知っているから「そうやんな。いらんやんな。おれが持っとくわな」、結局私が使う用もない水まき用の柄杓と灯油ポンプを手に持って、外に出ると会場にはぞろりぞろりと人が集まり始めていた。いま私たちは一応の平和な時代の中で、たとえば政治的な主張の違いや時には些細な口の利き方なんかで、誰かのことを嫌いになったり好きになったりしている。インターネットだと一瞬でも気にくわないと思った人は簡単に視界から切り離して二度と目にすることのないように出来る。誰とでも仲良くなる必要なんてまったくないけれど、それでも私たちが切ったり離したり捨てたりしたそのひとにもそのひとの、代わりのきかない人生がある。たとえうっとおしいやつでも、たとえ好きなやつでも、どんなやつであっても全部ひっくるめて世の中には誰にも侵害されてはならない個人の大切な日常があり、そういうのを全部、今このようなうだうだした思考を巡らせている私や、肩に乗っかっている子供も含めていきなり、挨拶もなしに、突然、根こそぎ奪ってしまうのが災害というものだ。みんなの怒ったり笑ったりつまらなそうにしていたりするなんでもない時間の連続が突然ぷっつりと奪われてしまうこと、それが災害というものなのだ。そんなことを思っていると中学生たちの挨拶と、1分間の黙祷があって、私はそれが終わるとここまで大人しくしていてくれてどうもありがとうごぜえます、ありがとうごぜえますと三歳児に深く感謝する。そして、演奏が始まったのだった。しかしなんということか。せっかくここまでなんとか無事にたどり着いたにも関わらず歌が始まるやいなや子供が「この歌おじさんたちきらい」などと言い出したのである。もうちょっと、もうちょっとだけ聴こうと周囲を歩きながら懸命に説得する。「はやくおうち帰ろうよ。歌おじさんきらいって言ってるでしょ」アメ食べる?「もう、おうち帰るよ」いやちょっと待ってくれ、この人らすごい人なんやで、アメ食べへんか?「歌おじさんきらい。トラベジ(カゴメの子供向け野菜食応援ソング)歌わないでしょ」「トラベジは歌わんかもしらんけどトラジは歌うかもしれん。有名な朝鮮民謡。美空ひばりもカバーしてるよ」「歌おじさんきらい。おうち帰ろうよ」と子供もゆずらない。もうちょっと、ほんまもうちょっとだけ、せめて満月の夕まで聴かせてよ、僕はなんというか、あのとき十代で、何をしてよいのか、何をしに来たのかもよくわからない、役に立たない駄目なボランティアだったのだと思う。ある日テントに入って何もせずにふてくされて寝ていると音楽が鳴り始めて、うっせえなあと隙間から彼らの歌う民謡を聴いていた、そんな24年前のふてくされ斜にかまえて、目の前の光景に思考停止してしまった、そんな日常も、いま真面目に目をつぶって黙祷している、きみを連れてこの場所に立っているこの日常も、全部がつながっている。だから、満月の夕だけは聴いていこう、いつもの店で刺し身を買い、めんどくさいからベンチで食べ、帰って風呂に入り、メシを食ってそのあとはだらだらと映画を見て、たぶん焼酎を飲んで寝る、そうやって平凡に生きていることの愛らしさとか、普段あらためて言葉にすることもないようなたわいなさの意味をつい意識してしまう、たとえばほら、今日はいつもよりあたたかかったからスマホを忘れてね、とかそういう小さなことの連続が僕らの今ここにいる証なんだ、ほら、ほら、演奏が始まったよ。

第17回 神戸鉄火巡礼

私には、この世に生まれて来た瞬間の記憶がある。
産声を上げる事も忘れ、外界の眩しさに耐え、
この問題を解決しないと自分は先へ進めないぞと、
出てきたばかりの体をタオルで拭かれながら黙考していたのだ。
それは「ビールに一番合うつまみは何か」という問題である。

あれから四十数年。結局私はどこへも行けないまま、ある日新開地にある老舗酒場『丸萬』のカウンターで大将の包丁さばきをぼんやり眺めていた時に突然体を電流が駆け抜け、答えがわかってしまったのだ。
ビールに一番合うつまみ。それは鉄火巻である。

「大将、てっ鉄火巻ください!」
私は急いでそのように注文し、追加でビールもたのむ。
ここは大将の動きが見える特等席。漬け物をアテに、注いだビールをちびちび飲みながら、海苔にシャリを敷きマグロを隙間なく並べ、巻いた後包丁が音立ててサクッサクッと入る様子を見ながら、
私は知らず知らずのうちに涙を流していた。

見た目に美しく、煮込みやおでんのように冷める心配をしなくてもよい。
酒のつまみでありながらご飯でもある。
見て良し食って良し、おまけに腹まで膨れる完全食。
新生児の頃から探していた答えはこれだったのか。私はそうつぶやき、決意した。
人生は旅である。これから、鉄火巻を探す旅に出よう。

えっと、時間ないので2軒目行きますね。
丸萬を出たら、同じ新開地でもこちらは福原の路地裏にある寿司とぼっかけうどんの店『あーちゃん』の鉄火巻

今でこそ「ああ、ぼっかけね、スジ肉を甘辛く炊いたやつ」と知った風な顔で説明出来るが、神戸に住むまでは何の事だかよくわかっていなかった。こちらでは冬の間、名物の「ぼっかけ粕汁うどん」が売られていてそれにいなり寿司を合わせれば最高だけれどその話は今度でよいだろう。ストイックにビールと鉄火巻で静かな時を過ごす。使い込まれた寿司下駄は見ているだけでつまみになる逸品である。

そこのにいちゃん、3軒目行くで。
新開地から山陽電車に乗って須磨寺駅で降りる。目の前の商店街を歩くとすぐに『寿し竹』にたどり着くだろう。

『寿し竹』は現在神戸市がやっている商店街・小売市場盛り上げイベント「神戸お立寄り」の認定店となっている。町の商店街や市場を行政で盛り上げていこうなんてなかなか素晴らしいではないか。今回認定されている商品は寿し竹名物「うの花ずし」であるが、私はそこは無視して鉄火巻とビールを注文するのである。イカが混じっているが気にしないでほしい。

ここまで三店、スタンダード型(見た目の話)の鉄火巻を見てきたが、4軒目は各線板宿駅から歩いてすぐ、板宿西部市場のすし処『つるぎ』で、花のように配置された美しい鉄火巻を見てほしい。

私のように人生でひまな時間が長いと、梅や桜の花びらの枚数を一輪づつ数えながら、数十メートルの道を半日かけて歩いたりするのだが、そうすると花弁が6枚になっているやつが、ごくまれにある。4つ葉のクローバーで刷り込まれた影響だろう、そのような個体を見ると運気が上がったような気分になってしまうのだ。忙しい人はなかなか路傍の花びらを数えながら町歩きする時間はないと思うが板宿に行けばいつでも会える満開の鉄火花。酒と共に鑑賞しよう。

『つるぎ』を出たらすぐ近くの銀映通商店街の鮮魚店『こうちゃん』でも鉄火巻仕入れておく。ひと口に鉄火巻と言っても同じものはひとつもない。いちばん違うのはシャリの分量で、こちらは写真を見てもらったらわかる通り酒のつまみ系鉄火ではなくて腹がふくれる系鉄火である。誰だ、もうお腹いっぱいって言ったのは。
途中でビールを買ってぶらぶら海まで歩こう。

板宿の鉄火を須磨の海で食う。
こう書くと江戸の仇を長崎で討つような趣がある。けれどどちらも須磨区だ。18歳のころ茅ヶ崎で暮らす友人が「夏はダメだね。海がにごっていて。冬が一番きれいだよ」なんて言っていて、その時は何言ってやがんだこいつなんて思ったけれど、あれから二十数年、同じことを私も思っている。須磨の海は今がいちばん美しい。

そんな感傷にひたっている時間もなく、ここまで来たら長田へと挨拶に行こう。
地下鉄海岸線に乗って苅藻駅で降りると鉄火6軒目、
北方向に数分歩けば地元で働く方たちに愛されている寿司店『長兵衛』がある。

こちらは握り寿司とお蕎麦の昼セットがどうかしているくらい最高なのであるが、
どこまでも禁欲的に鉄火巻とビールで意地を通したい。

この店の鉄火巻は横配置である。
打ち上げ花火をどの方向から見るかという映画があったけれど、鉄火巻を縦に並べるか横に並べるかも問題だ。
横方向から見る鉄火巻と言えば私にはもうひとつ思い浮かべる店があり、場所は長田から外れるが7軒目。
神戸駅から山側に登った平野町の近く、バス停で言うと市バス7系統「楠谷町」停留所を降りてすぐの食堂『丸福』。
ここが横置きの名店である。

こちらの店は寿司、うどん、ラーメン、カレーとなんでもあって、まあ鉄火巻とビールだけで過ごす感じの店ではないのだが、それはここで紹介しているどの店にも共通する事なので、どうか気にしないでほしい。
私の記事を見て丸福を訪ねる人がいるとも思わないが営業は昼の14時くらいまでだと思うので一応注意されたい。

繰り返しになるがここで紹介しているどの店も鉄火とビール以外に素晴らしいメニューが用意されている。
私のように何かをこじらせてしまった注文ではなく、好きなものをたらふく食べて下さい。

あ、せっかく神戸駅の名前を出したのでついでに8軒目。駅から歩いて10分くらいかな。
神戸地方裁判所の裏っかわの路地にあるうどん屋「幸家」の鉄火巻もおさえておきたい。

この店も冬はとびきり美味い具だくさんの「かす汁うどん」があってそれに巻き寿司を合わせてほしいところだが、私はと言えば取り憑かれたように鉄火巻一筋である。

話は長田に戻る。せっかく苅藻まで来たのだから地下鉄海岸線に乗って、あるいはぶらぶら歩いて隣の駒ケ林まで。
新長田の本町筋商店街まで足を運び、向かい合って営業する鮮魚店『しのはら』と『魚源』を訪ねておこう。
鉄火巻ではないのでカウントはしない)

まずは『しのはら』のネギトロ巻きをつまみに公園でビールを飲む。

やはり公園でビールを飲んでいると故郷に帰ってきたような気分である。
日本中に公園はあるからそうなると日本中が故郷のようなものだ。
次に『魚源』の海鮮巻でも缶ビールを開けておこう。

写真を見て気付いた方もおられるかもしれないが、私はどこへ行くにもマイ醤油を持ち歩いている。正確に書くと保冷ボックス・醤油・箸の基本3点セットは例え冠婚葬祭の場であろうと、突発的な鮮魚店精肉店との遭遇にそなえて必ず持ち歩いているのである。

ちなみに魚源の海鮮巻は1パック150円。
300円くらいのお金で路上で海鮮巻とビールが楽しめてしまうのは長田人(ながたびと)の特権だ。

そうそう、鉄火巻とビールを組み合わせるという趣旨からは外れるのだが、せっかくこのあたりにいるのだから和田岬まで行ってみよう。ノエビアスタジアムのほど近くに、イニエスタ選手もやって来た(か来ていないかと言えば来ていない確率が高い)手打ちうどん『大八』がある。こちらはうどんとの定食で鉄火巻が出てくる。
醤油皿に梅干しを置いているが気にしないでほしい。
(ビールをたのんでいないのでこの店もカウントしない)

私は周囲に気をつかい過ぎて疲れるタイプである。
うどんと鉄火を合わせたからには蕎麦と鉄火も合わせておかないと、蕎麦に悪い気がしたので9軒目。
湊川にある食堂『江戸家』でざるそばと鉄火を食べに行こう。どなたか付き合ってくれませんか。

なぜどなたか付き合ってくれませんかかと言うと、こちらの鉄火は「ダブル(12個)」で登場するからだ。
ウイスキーにシングルとダブルがあるのと同じである。腹がふくれるのでここはビールは小瓶にしておこう。

そろそろ鉄火ばかり食べすぎて倒れてしまいそうになってきた。
10軒目、岡本の『灘寿司』で鉄火巡礼の旅をシメておきたい。
阪急電車の岡本駅かJR摂津本山駅のどちらで降りてもすぐ近く。
いっしょに食べているのはぶ厚く切られたアジの王様ことシマアジである。

蛇足だが私はこちらのお店のエビが好きだ。
別の日にはイカ・エビ・鉄火と三種の神器を揃えている。

そうだ。シマアジというと思い出すのは灘の『寿し豊』である。 2017年の12月10日。この日はよく晴れた日曜日で、王子動物園で毎年恒例の干支の引き継ぎ式があったのだ。 『ごろごろ、神戸2』でその日の様子をレポート(?)している。

記事には書いていないが行事が終わった後で寿し豊を訪ね、たのんだ上にぎりにシマアジが入っていた。
ひと口食べて「え、シマアジってこんなに美味かったっけ」と感動した事を覚えているのである。
このまま帰るのもあれなので、せっかくだから11軒目も寄っておこう。

と思ってJR摩耶駅から畑原東市場に行くと、あいにくこの日は新年のためネタが少なく鉄火巻がなかった。
だから穴子の磯辺巻きでビールを飲む。
ここまで来ると私はもう、目の前に鉄火巻がなくてもこう瞼の上下ぴったり合わせ、思い出しゃあ絵で描くように鉄火が見える、瞼の鉄火みたいな感じである。

長々と鉄火巻の写真ばかり並べて来たが、最後は冒頭に紹介した新開地の『丸萬』に戻ろう。
この店には並鉄火と上鉄火があって、何が違うのかというと部位がトロになるわけだ。
普段私は赤身しか食べないのだけれど、正月だから縁起物を注文しておこう。

私は「元祖・神戸お立寄り」と呼ばれた男である。経費でメシ食ってる奴にはぜったい負けねえ、
そんな意地とプライドで今回もまた頂戴する原稿料を遥かに超える金額を地元個人店に投入するのであった。

鉄火だけに、大赤字である。

第16回 ふれあい荘のナイトくん

小津安二郎監督『東京暮色』は物語に救いがなさすぎるのでもう二度と見たくない、そう思いながらもつい繰り返し見てしまう作品で、それにしても恋人にだまされ深夜喫茶で補導され身も心もぼろぼろで家に帰って来た明子に対し父の周吉が「そんなやつはお父さんの子じゃないぞ」とまで厳しく叱ってしまったのがつらい。もちろん「そんなやつはお父さんの子じゃないぞ」などと周吉は断じて思っていない。母が家を出てからは父親ひとりで誰よりも明子を可愛がって来た、そんな自負があるからこそ出た愛情の裏返しだとわかるけれど、傷ついた明子にはその愛情の部分は通じなくて、あくまでも「そんなやつはお父さんの子じゃないぞ」という言葉の表層だけが届き、心をえぐってしまう。やがて二階の寝室で姉の孝子と肩を並べて座り「あたし、余計な子ね」「あたし、生まれて来ない方が良かった」と吐き出す言葉は先ほどの周吉の叱責と反響し合って、劇中いつまでも明子の中で負の呪文として機能してしまう。二階の別の部屋では周吉が、眠れずにうつろな目で煙草の煙を吐き出している。同じ屋根の下にいるのに家族3人がそれぞれにわかり合えない孤独を抱え、重苦しい沈黙が続く中で、聞こえるのはどこか遠くで鳴いている犬の声だけだ。

と、思いきや、その鳴き声は突然画面をはみ出す勢いで大きくなる。
今ではイヤホンを付けている意味がないほどの大音量となり「ウオッ! ウオッ!」「ウオッ! ウオッ!」とそれは聞き慣れた吠え声となって耳をつんざき、振り向くと声の主は、アシカのナイト君(7歳)であった。

ナイト君がこのたび、約7年暮らした須磨海浜水族園を離れ、生まれ故郷である愛知県の南知多ビーチランドに引っ越しする事になった。正直なところアシカについて、特別な興味や思い入れがあるわけではないけれど、彼がいるのはスマスイ本館3階にある「水辺のふれあい遊園」で、私は最近まで3年ほどこの場所に入り浸っていたから、言ってみれば同じアパートに暮らす2軒となりの住人(ゴミ出しの日に顔を合わせて挨拶)くらいの同窓感があった。「水辺のふれあい遊園」をひとつのアパートだとするなら(以降「ふれあい荘」と呼ぶ)、ナイト君は間違いなくその存在感の大きさ、というよりも声の大きさから場を支配する中心、管理人的立場であったと言ってよい。どこにいても聞こえる、海にいても聞こえる、いや、俺は駅から聞こえたぞ、とまで言われるほどのボリュームで小さい子供が前を通るたびに「ウオッ! ウオッ!」「ウオッ! ウオッ!」と派手に吠えていた彼はもしかすると管理人というよりは、周囲をかえりみずひときわ大音量で楽器を鳴らすバンドマンの若者、という役割だったかもしれない。

スマスイは夏と冬に夜間営業をしていて、平日の夜に開催している場合はふれあい荘周辺はけっこうすいていて、誰もいないこの場所で海側のベンチに座り、私は何本かの映画を見た。『東京暮色』を見ていたのもこの場所で、冒頭のような不意の中断があった事が印象に残っている。ナイト君がいなくなった後、スマスイ大名物であるナイトくんパンがいったいどうなるのかも気になるが、それ以上に心配なのはアシカ寿司のゆくえである。アシカ寿司とは何かと言うと、スマスイに行く前に、駅前すぐの場所に鮮魚店がある須磨駅塩屋駅で降りて寿司を買いふれあい荘海側の無駄に多いベンチのひとつに腰を掛け、遠目にナイトくんを意識しながら食べる寿司の事である。それをアシカ寿司と呼んでい るのは世界でも私しかいないので、ナイトくんパンとは違い、アシカ寿司がなくなっても困る人はいないだろう。私はやはり、ナイト君そのものに愛着があったというよりは、自分もひとりの住人と言える程度には長く居たこのふれあい荘で、ひときわ大きな存在感を示していた彼がいなくなる事に、2軒となりの住人が引っ越して行く程度の、いやそれ以上のさびしさを感じているのだ。

寿司といえば昨年『ごろごろ、神戸2』でとりあげた、神戸市民百数十万人にとっての希望の光、全国5542人のナリエ鑑賞士が選んだ日本新三大ナリエのひとつ「スシナリエ」が今年は点灯していない。光を灯していた寿司勝さんがなんと閉店してしまったからである。寒くなればいつでもある、という感じでそれほどのありがたみを感じる事もなく、つまりはそれだけ生活の一部として馴染んでいたスシナリエが、まさかなくなると予想した人はいないのではないだろうか。日本新三大なくなっては困る場所ことミナイチ、とみちゃん、スシナリエ。そしてつい先頃、太陽系で一番インスタグラムに映えるメロンソーダが撮影できる場所として知られるポートタワーの回転喫茶室まで閉店してしまった。
スシナリエのないクリスマス。ナイト君のいないスマスイ。回転喫茶室のないポートタワー。あと数年もすれば、どれもこれもあった事すら知らない人のほうが多くなるだろう。寿司屋さんの電飾とアシカを比べられても困るだろうが、どちらも謎の存在感の大きさという意味では同じである。

知っているものがなくなっていく。その別れの感覚は、年老いた人には彼ら彼女らの、若い世代には彼ら彼女らの、どの世代にもそれぞれのものがあって、生きるという事はつまり、そのような別れの感覚と並走する事なのかもしれない。人生には別れが多い、別れがつきものよ、そんな意味の漢詩井伏鱒二が「サヨナラだけが人生だ」と竹を割ったように訳したのは案外そういう事なのかもしれない、今なら理解できるゾ、なんて気分の最近だ。しかし、こんな書き方ではナイトくんまでがいなくなったようである。南知多でのびのびがんばってください。私はもう少し、神戸にいるよ。

第15回 ミナイチ・エレジー

雨の降る日はあまり外出したくないけれど、どうしても外に出かけると言われては仕方がない。
子供用と大人用、傘を2本用意して外に出て、雨の日にはいつもするように、傘を差している時に頭の上で間近に響くビニールにあたる雨の音と、その傘をさっと地面に下げた時に周囲のアスファルトから響いてくる雨の音が、同じ雨の音なのにまったく違っていてそれがとてもおもしろいのだ、という事を教えようとするけれど、今の彼女はそのような話にはまったく興味がなくて、反響する雨の音などはつまらないとでも言うように、私の言葉や大げさな身ぶりから逃げ出して駆ける。それでもすぐ、自分の足で歩くのに飽きた、傘を差すのにも飽きたと言うから、結局はほとんどの道中を肩車しながら手を伸ばして傘を差し、えっちらおっちらと歩く。湊川商店街まで来ればアーケードがあるからもう傘は必要ない。以前は毎日のようにしていた肩車も最近は回数が激減して、終わりが見えて来たというか、子供をエイヤと抱えて首に乗せるたびにこれが最後なのかもしれないなという気持ちでいる。

パークタウンを歩いて先ごろ閉店したとみちゃんの横を通り、かつてはここから良いにおいがして、昼どきのおばちゃん達のにぎわいがあったものだとなつかしむ。子供が生まれたばかりの頃に最初に通ったお好み焼き屋の、もう二度とは吸えない空気を思い出しながら、パークタウンからミナイチへ。昨日中華丼を食べたばかりの明石軒の横を通ってずっと昔に閉店した食堂の、埃のごっそりたまったショーウィンドウをいつものように眺める。リサイクルショップを用もなく一周歩いて、「乳母車もどうぞ」と筆字で書かれた年代物のエレベーターに乗って地上へ。地上から歩いて来たはずなのに気付けばなぜか地下を歩いており、エレベーターで2階に上がったつもりがそこは1階で、でもそのエレベーターで2階に上がるとまた別の場所の地上に出る。そんな風に、書いていても何の事だかわからない、地形の高低差ゆえの独特の迷路構造も今では土地勘が出来て迷う事はない。初めてここに来た時にかす汁と焼きそばを食べた、様々な食堂が並ぶ職人街道も今はなく、広い空きスペースとなっていて、そのさびしさにもとっくに目が慣れている。そしていつもの店でいつものように買い物をして、いざ金を払おうと財布のチャックを開けると中には数十円の小銭しか入っていなかった。

「お金持たんと来てしもたわ」と私は店主に向かって笑う。
ほうか、あとでええわと店主がこたえる。
「今そこの銀行いってきますわ、すぐ戻ってくるんで」
と言ったけれど、心の中ではこの天気で子供を連れて銀行まで行くのはダルいなあ、と思って、でも仕方ないから空きスペースで遊ぶ子供におうい、銀行いくでえと呼びかけると、ええよええよここで見とくからあんた一人で行ってき、子供濡れたらかわいそうやろと言われる。
「ほなちょっとたのんますわ、よろしく」「あいよ」と歩いて少しだけ振り返ってみたら、子供は最初から私など居なかったように背中を向けて、店の人からもらったみかんを食べている。

初めて連れて来た時にはベビーカーに乗っていて自分では歩く事も出来なかったのに、今は私から離れて、市場で遊んでいる。

通りを山側に少し歩き、横断歩道を渡った先の銀行でお金をおろす。ついでだからと八百屋をのぞいたら「今日は一人?珍しいねえ」と言われて、「一人ちゃうけど。ミナイチに置いてきた」「あそこ、なくなってさびしなるねえ」というような会話をしたあと、次にのぞいた漬物屋でも「今日は一人か。珍しい事もあるねえ」とまったく同じ事を言われる。ブロッコリーと白菜漬けを買ってリュックに入れふたたび「ミナイチ」と書かれた入口の、物陰からこっそりと中の様子を見ると、先ほどと変わらず子供は背を向けていて、今度は年齢のばらばらな子供達が3人いつの間にか集まって、その中には私の子供もいるのだが、ダンボール箱を机にして仲良さそうに何か遊んでいる。気付いた店主がこちらを見て笑っている。少しの間その場所から、通りの様子を見た。若い家族連れや老夫婦、飲食店の仕入れに来た人、さまざまな人たちが歩いている。私は子供たちに近付いて、ぼちぼち行くで、と名前を呼んで、商品のお金を払う。
ありがとう、ほなまたくるわ。はいはい気いつけて、またね、帰りはバスに乗りよ。わかったわかった。

というようなやり取りをした場所は、あと数ヶ月でなくなるのだなと思った

一歩足を踏み入れた瞬間に大好きになった市場の風景。神戸に住んでいると、そこまで珍しいものでもないとわかった個人商店とのつながり。それらが今どんどん失われていっているという現状。お店も商店街や市場もまだたくさんあるけれど、新しく増えるよりもなくなっていく店の方が多いから、そう遠くない未来に市場や商店街の文化がどうなるかはなんとなく想像が出来る。どれだけ下町の魅力とか人情だとか、口当たりの良い事を発信してみても、昭和時代の貯金はいつか、私たちがそれにすがっているうちになくなるだろう。ただこの事は、善悪で判断出来るような事象ではない。原因を探って誰かを悪者にしたら何かが解決するような、単純な話でもない。あちらもこちらも、終わるものは終わる。それが今の時代にやって来たというだけなんだろう。でもなんというか、最初から何も知らないままだったのならともかく、東京から遊びに来てこの町に一目惚れし、引っ越して来て、それがごっそりと消えてしまうのを今、見ているだけしかないという、このもやもやとした自分の心にどう落とし前をつければよいのやら、なんて思いながら、やって来たバスに乗った。

あの場所が取り壊されて、後に出来るのがどんなに最新の、美しい場所であったとしても、そこにどんな新しい物語があったとしても、市場はもう戻って来ないから、私たち、、、いや、私はいつまでも昔を思い出す事しか出来ず、着地する場所を失ったままで宙に浮いている。私たちがこれから手放そうとしているものについて、しっかりと意識しておくこと。自分たちが手放したものの価値や、それを手放したのだという現実を、真正面から見つめること。そこからしか未来への確かな一歩は、宙ぶらりんの状態からの着地は、出来ない気がしている。神戸、どうなるんかね。良くなってほしいね、と思う。なくなってしまう事への悲しさよりも、今となってはそれがあるうちに、たった数年であっても 通えて、市場で働く人たちや買い物に来る人たちと同じ時間を過ごせて良かったな、という喜びの方が大きい。ミナイチがある神戸を私は生きる事が出来たのだから。なくなってしまう市場を見送って、みんなが手を振っていても、自分はなんだか手を振る気持ちにはなれない。椅子にもたれ、雨の通りを行き交う車のヘッドライトを見ながら、草野心平が描く秋の夜の蛙同士の会話のように、神戸、どうなるんかね。良くなってほしいね。とふたたび思う。いつまでも、流れて行く景色に向かって会話を続ける。
良くなるかね。
どうだろうね。
良くなってほしいね。
きっと良くなるだろうね。
さびしいけどね。
さびしかないよ、そんなもんさ。

車窓に雨粒があたり、子供がそれを指先で追っている。

第14回 「お手伝いをしましょうか」

阪神電車元町駅西口。改札を入って、ホームへ降りる階段の手前あたりに「お手伝いをしましょうか」というメッセージとどこか懐かしいタッチの絵が壁に架けられている。架けられているというよりも、外すのを忘れてそのまま残っていると言ったほうがよさそうな風情のそれには、車椅子に乗った人を駅員さんも含めて通りがかった乗客が4人でかついで階段を上がる、そんな光景が描かれている。いま同じ場所にはエレベーターがあって必要な乗客はそちらを利用するので、絵はそれ以前の、ここに階段しかなかった時代の名残りだろう。

25年から30年ほど前か。私が毎日電車を使っていた十代の頃は、このような場面は特に珍しいものではなかった。ホームの階段の手前に車椅子の人がいる。するといつの間にか乗客が3人4人と集まって、かついで移動する。私自身そこでは何か特別な親切をしているつもりはなく、自然な風景としてそんな行為がある感じで、車椅子だけではなくベビーカーや年輩の人の荷物など、何かしらをかついで階段を上り下りした事は何度もある。
それは良くいえば互助の精神が身近なものとして乗客の間にあった頃の話で、悪く言えば、あってしかるべき設備(エレベーターやエスカレーター)が公共の場に普及する以前の、不便だった頃の話だ。

乙武洋匡氏が今年の4月にスポーツ報知のインタビューを受けていて、取材で滞在した実感として東京とロンドンを比較し、バリアフリーの実現度では東京は世界でもトップクラスだけれど、車椅子やベビーカーで困っている人を通行人が声をかけて助ける率となるとワーストになってしまう。ロンドンの場合バリアフリーは東京より進んでいないけれど、自然と誰かが手助けしてくれる社会になっている、というような事を語っていて(念のため註記。これはロンドンと比較して日本が不親切だとか、批判するような文脈の発言ではない)、この事は自分が普段ベビーカーを使って電車移動する時の実感とも重なる所だなと思った。日本では確かに他の国に比べて、乳幼児を連れた親やベビーカーに対して積極的に関わっていこうとする人は少ない。その理由は乙武氏も語っていたのだけれど、決して日本人が不親切だからではなく、単に見ず知らずの人の車椅子やベビーカーに接する事に対して、今は不慣れだからだろう。そしてこの事は、日本の進んだバリアフリー文化とは無関係でない気がした。

自分の経験で言っても、駅の階段で知らない人の車椅子をかついだり、電車に乗る時や降りる時に補助したりした経験はこの10年くらいではおそらく0で、以前は自然と目について自分から関わっていた事が、現在はそのすべてが駅員さんの仕事になっている。バリアフリーが進んだ事によって、車椅子やベビーカーの人に関わって行く事が「自分ごと」ではなく「他人ごと」になっていった。バリアフリーが浸透した結果と、私たちの「無関心(ぜんぶ駅員さんがやってくれるだろう)」は、切っても切れないものだと思う。世の中が便利に、まっとうになって、その結果私たちの間には『線』が引かれたのだ。

しかし、決して忘れてはいけないのは、互助の精神だの線だのと言っても結局それは、手助けする側の勝手な理屈でしかないということだ。
今の私には、彼ら彼女らを『助けて』いた当時の自分には想像出来なかった、あのころ階段の下でじっと誰かが来るのを待っていた車椅子の人のジリジリとした長い時間を想像する事が出来る。
車椅子をかつぎ上げられる側の人には、感謝以上に、さまざまな感情があったはずだ。
そもそも当たり前の事をするのになぜ手助けを待たないといけないのか、なぜ感謝しないといけないのか。
毎回善意に頼るしかないのがしんどくて、電車に乗る事が苦痛になった人だっているだろう。
そんな感情を、想像する事が出来る。

今のようにエレベーターがきちんと設置されていて、当然のこととして駅員さんが助けてくれる世の中の方が絶対的に正しく、皆でかつぎ上げていた時代を都合よく解釈していてはいけない。

それでもなお言えるのは、すぐ近くに助けを待っている人がいて、彼らと自然に関わらざるを得なかった時代の互助の形が、今の私たちに教える事もあるということで、古い不便な時代の人との関わり方をあっさり切り捨ててしまうのはもったいない。

杖をついた人や子供を抱いた母親や年輩者がたとえ立っていても誰も座席から関わって行こうとしない。なんとなく見慣れてしまったそんな光景は、居合わせた人たちが決して不親切なのではなく、単に困っている人に対して自分から関わって行くというコマンドが奥に隠れているだけなのだ。だから、きっかけひとつだよなと思う。たとえば若い人だったら、学校の授業のほんのわずかな時間に「妊婦、病人、老人に席をゆずってあげたらけっこうシブいのだ」みたいな価値観を教えてあげるのはそんなに難しい事ではない気もする。そうして粋な態度を学んだ若者が増えれば、これからずいぶん風通しが良い世界になると思うのだけれど。

先日西元町の駅でベビーカーをかついで階段を下りていたら、若い女性に「いっしょに持ちましょうか」と声をかけられて、私はこの3年間さまざまな場所に子供と出かけたがこのような声がけをされたのが初めての体験だったので(これは単に、私がいかつい男だからだろう)、緊張して戸惑ってしまった。理想的なのは、バリアフリーがいま以上に進んで誰もが遠慮なく出かける事が出来る社会と、ほんの少しの気配りのブレンド
「お手伝いをしましょうか」そんな言葉を日常的に口に出さなくてもいい素晴らしい時代になった今でも、気持ちだけはいつもポケットに忍ばせておこう。そんな事を、この古めかしいポスターを見るたびに思うのだ。

第13回 原田通のイーサン・ハント

前々から受講したかった灘大学に今季ようやく申し込む事が出来た。さっそく初回の講義では、当地で創業90年になる萩原珈琲さんの歴史を学ぶ。今まで知らなかったのだが、会場である原田資料館の近くには大正13年からの歴史ある和田市場がかつて存在して、萩原珈琲はそこから始まったのだという。会社沿革を見ると当時の所在地は武庫郡西灘村字原田620。質疑応答の時間になるとかつて和田市場に暮らしていたという年輩の方が挙手をされて、先代先々代がいた頃の市場の様子をありありと語っておられた。

なくなった市場について話す。もしかすると、神戸に暮らしている限り、いつか自分もそのような立場になるのかもしれない。そんな事を考えながらの帰り道、駅近くの交差点のあたりで突然、女性の悲鳴が聞こえたのだった。

これは何事かと思い周りを見渡すと、視界に入ったのは犬のリードを持って呆然とする女性と、少し離れた場所にはリードが外れた状態でこちらを見ている小型犬。犬の挙動にはそれなりに慣れているので見た瞬間に「あ、これは絶対に追いかけたらあかんやつ(余計に興奮して逃げる)」と判断する。この場で出来る最良のアクションは、警戒しながらこちらを見ている犬との距離は詰めず、飼い主はしゃがみ込んで視線の位置を下げるなどして警戒心を解いてやり、その間に周囲の人間がコンビニ等に行ってフライドチキンでも何でも、この際犬の体に悪かろうがとにかく興味を示す食べ物を与えておびき寄せる事だろう。とにかく今、動揺して追いかける事だけはしてはいけない。

なんて事を考えて対策に移れたわけではなく、ひどくあわてた女性は犬の名前を呼んで駆け出してしまう。予想通りさらに興奮状態となった犬は飼い主が遊んでくれているとでも思ったのか、よりによって最悪の選択肢である幹線道路に飛び出してしまった。こうなった時点で私はとっさに「あの犬は近い将来、最悪の結果になる可能性がこれで一気に高まった。良くて迷い犬。たぶん車にはねられる。もう、行くしかないだろう」と判断する。その間にも犬はバスやトラックが走る車道を無邪気に駆けていて、もうイチかバチかに賭けるしかないと私は道路に飛び出した。

と、ここまでは良いのだが、そもそも小型であれ大型であれ犬が本気で走ったらなかなか人間が追いつけるものではないのだ。追えども追えども距離は縮まらず、優雅に車道を駆ける小型犬。頭の中でミッション・インポッシブルのテーマを流し映画で見たトム・クルーズのフォームを真似て走り出したのも束の間、普段からまったく運動などしていない私は犬とは正反対の余裕の無さで心臓が破れそうである。目の前で無邪気に幹線道路を走る小さな後姿を見ているのが非常につらい。最初に飛び出した自分の選択は間違っていたのか。あのままにしておけばあいつは何もなかったように歩道に戻って来ていたかもしれない。もう、今すぐにも車に、バスに、バイクに、トラックにはねられる未来が見えるようだった。もうどうすればいいんや…………。そんな、絶望的な気分になっていた時、道路の反対側から猛然と私を抜き去って犬を追う若者がいた。ここから、彼の大追跡が始まる。

原田通、城内通、城内歩道橋、灘北通。土地勘のない私にはどこをどう走っているのかさっぱりわからないが、とにかくあの犬を車道から歩道に戻さないと。すでに飼い主がどこにいるのかもわからない。私はぜえぜえと若者の走りについていく。膝と心臓が限界だと訴えている。反対車線を猛スピードを出す車がすれ違う。ある時は車を止めたり、犬に気付いて車から止まってくれたり。そしてようやく歩道へと入って来た犬をなんとかおびき寄せようとし、距離が最大限に縮まった時、手を伸ばした私たちをすり抜けて犬はまた何事もなかったように車道に戻って行く。私は気持ちが折れてしまった。もう、力が出ない。

ふらふらと、どれだけ歩いただろうか。
飼い主も見失った。
犬も若者も見失った。
私は、もう無理だと歩道に倒れこんでしまう。

その時である。次郎長鮨と書かれた看板のあたりで視界をかすめたのは、可能性が1パーセントでもあるかぎりあきらめては駄目だと、さらなる猛ダッシュを見せて駅方面に犬を追う灘のイーサン・ハント(若者)の姿。
あきらめてはいけない。

最後の力をふりしぼってヨボヨボと駅までの道を行くと、ちょうど駅前のマンション内に犬を追い込んだ若者の様子が見えた。現地に辿り着くと、手を差し出そうとする彼に、エントランスの隅に追い込まれた犬は歯を剥いてすっかり興奮状態。私は走って近くのコンビニでペット用のおやつを買ってそれを彼に渡す。とりあえずこれで最悪の事態だけは避けられるだろう。若者も私と同様に、もう何があっても犬を逃すつもりはない。ここはあわてて無理矢理つかまえようとする事は避けて現場を彼に託し、私は今度はどこにいるかもわからない飼い主を探す旅に出る。たぶん、絶対に、すぐに戻ってくるからなんとかこの場所で耐えて……。

結局、王子動物園のあたりでリードを持ってふらふらしているひと目でそれとわかる女性がいて、飼い主はすぐに見つかった。聞くと自分の飼い犬ではなく友人から預かった犬なのだと言う。彼女は私に泣き出さんばかりに感謝するけれど、「いや、正味のハナシ僕はすぐにバテまして。追いかけて捕まえたのはもうひとりの兄さんですわ」とそこだけはしっかりと伝える。私たちは犬を彼女に引き合わせてあっさりと現場を離れた。「犬を追いかけてる時にカバンが邪魔だったから投げ捨てて。僕のカバンどこにあるんだろ……」とさっき彼が言っていたからだ。今度は若者のカバンを探せ。

犬を追った道をゆっくり逆に歩いて行く。さっき走った汗が今になってあとからあとから大量に出てくる。「そういえば弁当屋の近くだったような気がする」そう言う彼といっしょに原田通のキタミ屋まで戻ると、店員さんが「犬は大丈夫だった?」と店の奥からカバンを持ってきてくれた。道路に投げられていたカバンを拾ってくれていたのだ。
いつの間にか私も彼も汗だらけになっている。うちにも犬がおるからああいう状況はほっとかれへんよ、と私が話をする。名前も知らず、この先もう出会う事もないだろうけれど、たぶんこれからの人生で、なんとなくこの日の出来事を私たちは覚えているのだろうな、と思った。

別れ際、私は彼を指差して「兄さん、最高の走りやったねえ!」と(トム・クルーズを意識した笑顔を作り)手を振った。さて、帰るか。

坂道をくだり、駅まで戻ったところでふと気が変わって、来た道をもう一度引き返す。
そのまま帰るのが惜しいような気がして弁当屋さんまで戻り、一番高そうなデラックス弁当を注文する。
そして公園でひとり、ミッションの遂行を祝ったのだ。

第12回 ビッグ赤ちゃんイカリ山

朝から晩まで赤ちゃんのオムツ換えに追われていた時期、私は毎日のように大丸百貨店前の「元町通1丁目」と書かれた交差点に立っていた。当時はすぐ近くのファッションビルの地下に、なぜか小さな子供たちの遊び場である「キドキド」がテナントで入っていたので、私たちは元町駅を出てまず大丸百貨店で弁当を買ったり屋上で豚まんを食べたりして遊び場へ向かう。帰り道はまた大丸をのぞいて元町駅へ、そんな小さな三角形を行ったり来たりする生活を送っていたのだ。だから今でもこの交差点に立つと、過ぎた日々を思い出してせつない気持ちになる。

キドキドが閉まるのが夜の7時。ビルを出るとすっかり日は落ちていて、私たちのような子連れは繁華街にはあまりいない。ここからは仕事が終わったサラリーマンや、連れ立って飲みに出かける若い人たちの時間だ。いつものように大丸の地下食料品コーナーで惣菜が割引になっていないかをチェックしに行く。そして百貨店を出るとまた昼間と同じように、元町1丁目の交差点で信号が青になるのを待つ。
そんな時に、それはきらきらと輝いているのだった。

北方向、はるか遠くに見える山上に、船のイカリマークが植え込みで作られていて、それがライトアップされている様子なのだけれど、描かれたマークが私には、オムツ換えを待つ赤ちゃんにしか見えないのだった。
「はいはい、すぐに交換しますからね」と声をかけずにはいられないたたずまい。
これが神戸名物、錨山(いかりやま)に鎮座する『ビッグ赤ちゃん』である。

今うちの子供は3歳を過ぎて言語によるコミュニケーションもかなり発達している。
以前書いたけれど、それは「赤ちゃん」時代が終わったという事でもある。

かつてあれほど毎日のように見上げていたビッグ赤ちゃん。あの頃の、しんどいんだか満たされているんだかわからない、ただがむしゃらに過ごしていた日々はもう遠い。
秋になって気持ちよく晴れていたある日、なんとなく「会いに行くなら今だな」と思ったのだ。

元町駅から歩くと30分くらいはかかるだろうか。神戸駅三宮駅前から出ている市バスの「7系統」に乗って「諏訪山公園下」のバス停を降りるのがいちばんアクセスが簡単だ。バスを降りてすぐの諏訪神社参道か隣接する公園の下から山に登る道が伸びているから、どちらでも好きな所からチョチョイと登ればまずはすぐ、我らが金星台に到着する。

私は陳舜臣『神戸ものがたり』に書かれてある「金星台に立とう、そしたら神戸の街の息吹が感じられまっせ(意訳)」というアジテーションを読んでここに来たため、最初こそ「なんかパッとせん場所やな……」(すいません)などと思っていたのだけれど、何度かここに通ううちに、たしかに「観光地」的な派手さはないけれど、やたら広々としたこの場所の、あくまでも生活空間の延長としての居心地の良さを知ってしまった。近くで働く人が仕事の合間にお弁当を食べていたり、親子連れ(おもに私たち)がぼーっとくつろいでいたりして、のどかで良いものだ。

真下にある「子供の園」に行くと、やたらと遊具のスケールが大きく、子供のためだけに作ったにしてはえらい贅沢な広さだなと感心してしまう。けれど、このあたりは昭和の始めから終戦後しばらくまで、動物園があった場所なのだ。1951年、この場所から歩いて王子動物園に引っ越したゾウの諏訪子は2008年まで生きていたというから、まだまだ最近の事と言ってもよい。『諏訪山動物園ものがたり』(水山産業株式会社出版部)という本には、1943年から日本各地の動物園で行われた「戦時猛獣処分」がこの場所でもあったのだ、という事実が描かれている。

金星台から10分ほど歩いた場所にあるビーナスブリッジは、恋人たちの聖地である。
その事を本やインターネットで知識として得た私は、ある日の酒の席で、
「ビーナスブリッジって恋人たちの聖地なんやろ。きみらも行ったん?」
と神戸生まれ神戸育ちの人にたずねてみると「はあ?(何を言ってるんだこの人は)」と吹き出されるくらいには、まあなんというか、恋人たちの聖地なのだろう。
それよりも、私としては「ほお、ここから本田巡査がバイクで駆け下りたのだろうか」と思うこの場所が気になった。

そう、ここは恋人たちの聖地かどうかはともかく、漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の聖地なのである。父親に強引にお見合いをセッティングされた秋本麗子が、荷物持ち役の両津勘吉と一緒に実家がある神戸に帰るという話で、二人がドライブに出かけた先がこのビーナスブリッジ。途中なぜかバイク魔人の本田速人が両津たちを追って神戸までやって来て、崖を駆け下りて登場するシーンのコンクリート壁がこことそっくりだ。

ちなみに両津と麗子が並んで街を見下ろすのがこの場所で、土日祝日ともなれば全国から数万人規模のこち亀ファンが聖地巡礼としてコミック片手にここを訪れている(知らんけど)。

という話はともかく、ビーナスブリッジを歩いた先には展望広場があって、そこをさらに進んで階段を降り、再度山ドライブウェイ(下の写真の2車線道路)を渡ったところから、登山道に入っていく。
ちょっとわかりにくい気がするので写真をのせておきます。

山道を歩いていると、体を動かしている以外はヒマなので、考えごとをしながら歩く。
この日、私が考えていたのは、ハイキングと読書はものすごく相性が良いのではないかということだ。なぜなら本というのは誰かの考えが結実した成果物であるからして、もし山を登りながら本が読めたならば、登山者は道中いらぬ考えごとをしなくてすむからである。
といっても実際に下を向き本を読みながら歩くわけにはいかない。

最近はスマホの画面を機械が勝手に読み上げてくれる機能があるので、スピーカーで音を鳴らしながら歩く。こういう時にふさわしいのはまさに「山路を登りながら、こう考えた。」から始まる夏目漱石の『草枕』であろう。私は正直言って、この音声読み上げ登山は革命的な発見であり登山スタイルの大革命だと思ったのである。しかし実際にやってみたら、山道に響く朗読の機械音声が不愉快でスマホを叩き壊したくなるだけだった。

一応書いておくと、道中は全然険しい感じではないのだが、途中大雨や台風の影響だと思うけれど道がそこそこ荒れている箇所がある。大人なら注意して歩けば全然大丈夫だが、幼児を連れて歩くのはまだやめておいた方がいいです。
のんびり歩くこと40分くらいだろうか、ついに、運命のフェンスが見えてくる。

私はもう頭の中がそのようにしか見えなくなっているので、この、フェンスの向こうで横たわるモコモコが、横から見ても、間近に来た今も、赤ん坊にしか見えないのである。ようやく会えたな、と思う。神戸を見下ろすビッグ赤ちゃんがまさに今、目の前にいるのだ。サイン会等に行き、応援するアイドルに会えたファンの気持ちとはこういうものだろうか。私の場合は手に持つのは色紙ではなくオムツである。
「はいはい、ちょっと待っててくれよ(いま換えるから)」という感じだ。

この錨模様が作られたのは1903年(明治36)。ここに来る道で機械に読み上げさせて気持ち悪すぎて腹が立った夏目漱石の『草枕』が1906年の発表だからほぼ同年代。先ほど戦時猛獣処分について少し触れたが、その頃大阪の天王寺動物園で働いていたのが筒井康隆氏の父。その筒井嘉隆氏が生まれたのも1903年。つまりビッグ赤ちゃんは人生の大先輩なのである。
しかしそのような偉大な先輩であっても私にはやはり、オムツ換えを待つ赤ん坊にしか見えず、「はいはい、わかったよ」と思う。この場所で赤ちゃんはたったひとりで、たよりなく、それでいて堂々と、100年以上も街を見守っているのだ。

元町から、メリケンパークから、神戸の街のそこかしこからビッグ赤ちゃんがきらきらと輝いているのが見える。
それを見て、私はこれから出会うすべての小さな赤ちゃんに、やさしい大人でありたいと思うのだ。