『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』は2017年5月から2019年4月まで本ブログ管理者である平民金子が執筆し神戸市広報課サイトにて連載されたコンテンツです。現在神戸市広報課サイトに本コンテンツは掲載されておりませんので、このたび神戸市さんのご好意により本ブログへの転載許可を頂きました。記事の著作権は神戸市にありますが、書かれた内容についてはすべて執筆者にお問い合わせ下さい。本コンテンツに大幅に加筆をした『ごろごろ、神戸。』が株式会社ぴあより出版されています。そちらもよろしくお願いします。

最終回 避けた小道

細い路地の向こうには日が当たっていて、やわらかい光の中に黒と、ぶちの2匹の猫が、体をくっつけて昼寝をしている。私は自転車で先を急いでいたのだけれど、視線の先のあまりにも完成された景色に遠慮して、どのような理由があってもそれを壊してはいけないような気がするから、遠回りして別の道を走った。
あたたかい日の午後。数匹の野良猫が路地の真ん中で堂々と寝そべっている時間帯を私は知っている。その時はこうやって遠回りするんだ。でも、通らなかったという事によってなおさら、私の中には避けた小道の情景がありありと浮かぶ。日が当たっている。身を寄せて猫が寝ている。近所のおじさんもおばさんも、猫を避けて歩いている。

久しぶりに銭湯に行った。

今はどこにでもタブレットスマホを持ち込む生活習慣になっていて、風呂やトイレでも何かを読んだり何かを書いたりしている。布団に入る時でさえもスマホを手放さずに、暗い部屋で電子書籍を読んでいる。それは寝る前の楽しみなんだ。でも、銭湯の大浴場には当然スマホは持っていけない。そうしたら結果的に、まったく何もしないぼんやりとした時間を持つことができた。

湯船につかり目を閉じると栄養がいきわたっていくような気がする。この数ヶ月、子供の爪を切る時にピントがあきらかに合いづらくなっていて、近くを見る時の視界がずいぶんぼやけていた。なんだか急に目が見えづらくなって。酒場でそんな話をすると、それ老眼ちゃうのとあっさりと言われ、私は着実に年をとっているのだと思った。湯船のへりに頭をのせて、思いきり足をのばす。

先日人前で喋る用事があって、近所の中華料理店で出される味のないカレーの話をした。普通は家で作るカレーも店で出されるカレーも当たり前の事として味がある。でもその店で出されるカレーには味がしないから、仕方ないなと思ってウスターソースをかけて食べる。店員さんも親切で感じがよい。でも味がしないんだよなと、そのカレーを食べるたびに(そう、何度も食べているんだ)「なんなんこれ?」と思うのだ。それは、文句ではなくて。
好きとか嫌いとかで判断されるものではない。記憶に強く残る感じ。ほうっておけない。心に植えつけられる感じ。『弱虫ペダル』で今泉俊輔が高校入学式の日にママチャリで裏門坂を登る小野田坂道を見て「……なんだこいつは!」と言った時の感じ。このカレーが私は大好きなんだけれど、それを万人にすすめてよいかのかどうかは不明なのだと、そんな話をした。

古い市場でくっちゃべりながら買い物をすることのおもしろさ。狭い路地や、何十年も大事に使われてきた建物の年季の入った魅力、それをどれだけ最高だ最高だと書いてみても、大きく外に広がる説得力はない。色んな人たちから聞かれる事に答え、適当に笑って、下町っておもしろいですね、市場ってすごいですね、なんていう事を口にするたびごとに、自らの言葉の安さが鈍痛のように頭の奥に響く。都合よく町をこわし、都合よく町を消費し、いつだって町に対して安い言葉しか持てないのならばいっそ、なにもかもなくして、新しい風景を見ていた方がよいのではないか。

誰もいない湯船で目を閉じて、ぼんやりと考えていた。

へえ、昔の神戸が好きなんか。あのな、と、震災前の話をされてもとまどってしまう。その姿を私は知りようがないからだ。手の届かないものの魅力を語られてもなあと、居心地が悪くなる。私はあの時、神戸の何も見ていなかったのだといつも思う。それは比喩的な意味ではなく、私のいた場所ではだいたいのものが失われていたのだから。どこかであの時の町と、今ここをつなげる道が必要だと思っていて、せっせと文章を書いてはいるけれど、過去につながるその道には、猫が気持ちよさそうに寝ているから、私には絶対に通ることが出来ない。

体を拭き、脱衣所を出て、生ビールをたのんだ。

細い路地の向こうには日が当たっていて、やわらかい光の中に黒と、ぶちの2匹の猫が、体をくっつけて昼寝をしている。私は自転車で先を急いでいたのだけれど、視線の先のあまりにも完成された景色に遠慮して、どのような理由があってもそれを壊してはいけないような気がするから、遠回りして別の道を走った。避けた小道には、猫だけではなくて、なつかしい人たち、今はもういない人たちもたたずんでいる。

不在によってなおさらありありと心に浮かび上がる情景。思うこと。思い出すこと。思い続けること。それはとても大切なことだと言い聞かせ、自転車をこいだ。