『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』は2017年5月から2019年4月まで本ブログ管理者である平民金子が執筆し神戸市広報課サイトにて連載されたコンテンツです。現在神戸市広報課サイトに本コンテンツは掲載されておりませんので、このたび神戸市さんのご好意により本ブログへの転載許可を頂きました。記事の著作権は神戸市にありますが、書かれた内容についてはすべて執筆者にお問い合わせ下さい。本コンテンツに大幅に加筆をした『ごろごろ、神戸。』が株式会社ぴあより出版されています。そちらもよろしくお願いします。

第32回 キラキラ

クリスマスシーズンの百貨店、子供用品やキッズコーナーがあるフロアのオムツ替えスペースに行くと、乳幼児とその母親、祖母という組み合わせが多く(つまり女性が多い)、入ったとたんに「むわっ」とするような、男性だらけの空間に独特のにおいがあるように女性だらけの空間にも特有のにおいがあり、空気の濃密さと、そこに小汚い格好のヒゲ面で入ってしまった瞬間の、刺さるような視線にとまどう。この時期の、特に平日の百貨店(子供用品階)というのはそういうもので、女性たちには何の悪気もなくてもやはり男1人ではなかなか入りにくい。すいませんね、すいませんねと思いながら必要な作業をすませ、子供を抱いてさっさと逃げるようにその場から去り、エスカレーターで1階に降りて外に出る。そんな時に思い切り吸い込む冬の空気はひんやりと気持ち良い。

つくづく思うのだが、私は幼い子供を連れていると、全身が過敏な粘膜のようになってしまい、善意に対しても悪意に対しても極端に感応してしまう。例えば電車の中で子供を抱いてドアにもたれ景色を見ていると、わざわざ遠くの方から椅子に座っていたおばちゃんが駆け寄ってきて「おにいちゃん、わたしのとこに座り」と席をゆずってくれた時。また例えば、優先席の前で子供を抱いて立っていてもそこに腰をかけている誰もがスマホを見たり雑談したり、あきらかに見えているはずのこちらの存在がないもののように処理され、じりじりと時間が流れて行く時。そのような時に必要以上にうれしくなったり、あるいは必要以上にくやしく悲しい気分になったりと、良い風にも悪い風にも感情が大きく動いてしんどいから、だから私は他人との接触をできるだけ避けて過ごして来た。ママ友やパパ友、自分の親や配偶者の親、誰とであっても、この時期の人付き合いを無難にこなす器用さがない。

百貨店の前の横断歩道を渡って自転車置き場まで歩き、まったく人間関係ってのはヤダねえなんて、そんな事を子供につぶやきながらチェーン鍵をあけて、そうやって収納するにはもう随分大きくなった子供を使い慣れた抱っこ紐に入れてサドルをまたぐ。親がこんな感じで大丈夫かいな、と思いながらペダルをこぐ。大丈夫だと思ってやるしかない。

夕暮れてあたりはすでに薄暗く、ハンドルを持つ手は冷たいから痛いへと変化している。
12月になって視界に入り始めるのは、道路の街路樹や商店街や、駅前に取り付けられたクリスマスの電飾だ。私にはなんの興味もなかったそれらの人工的な町の灯りを、小さな子供は愛おしそうに「キラキラ、キラキラ」と歌うようにつぶやきながら、指をさしたり、指をさしたと思ってはすぐに自転車の速さで景色は通り過ぎるので、また次の光を見つけては指をさし、そして通りすぎ、興味深く眺め続けている。こんなモンの何がエエねん、なんて思っていたのは最初の頃だけで、今では私もあえて飾り付けの多い場所へ遠回りしたりして、そんな繰り返しの中で師走の時間は流れて行く。寒風の中で、体の前面のそこだけが温かくカイロのようにくっついている子供を真似て私も、キラキラやな、キラキラやで、そんな風に口に出しながら、高架をくぐった先の赤信号で自転車を停める。国道28号線の広い道路はひっきりなしに車が通り、信号はなかなか青に変わらない。しかし私たちは別にこのまま信号が変わらなくていいと思っている。目の前にお目当ての城があるからだ。

時々、何を思ったのかわからないけれど、敷地中をこれでもかと派手に電飾している家がある。
かつて私の父親がそんな風に家を電飾で囲った事があった。あの頃の私はもう二十歳近かったと思うので、自分の子供のためにやっていたわけではないだろう。とにかく数年の間、クリスマス前後になると私の家は派手な電飾で覆われていて、それは家族の誰からも喜ばれてはおらず、近所に見られて恥ずかしいから外せと疎まれてさえいた。
こういう事をする人って何を考えてるんやろ。なんの意味があるんやろう。自分の家や他人の家だけでなく、町にほどこされた12月の過剰な電飾を見てそう思っていたのがかつての私だったのだけれど、今ではもう、冬の間にいつも同じ道を通って、駅前や商店街や公園の飾り付けを見学し、この城の前で自転車を停めて、キラキラ、キラキラと言い合いながら眺めるのが習慣になっていた。ビルには不似合いとも思える、夜の町に立つお菓子の城のようなデコレーション。「キラキラ、キラキラ」と子供が言う。「キラキラやでほんまに」とそれにこたえる私に、無機的な灯が冬の空気のように染みていく。

今年はどこにも行けなかった。もっと行きたい場所ややりたい事もあるのに、いかんせん計画通りにはいかない。
子供は大人と違ってなかなか言う事もきいてくれないし、結局はメリケンパークやハーバーランド、近所の公園くらいしか私たちごろごろ神戸取材班が気兼ねなく移動し、過ごせる場所はなく、この連載での行動範囲もごく限られたものになってしまった。来年はどうなるだろう。なんというか、うまくやっていこうとするのはなかなか大変だ。

いつも通る散歩道に一人暮らしのおじいさんがいて、家の前の植木鉢に誰が見るのかわからないクリスマスの飾り付けをし始めて、おかしな事やるよななんて思っていたけれど、それは私の子供がそこを歩いているものだから「この子がよろこぶやろ?」と付けていたのだと知った。
あれほど嫌いだった、かつて邪険に扱った12月のキラキラした感じが、今の私たちを包んでいて、毎日を照らしてくれている。