『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』は2017年5月から2019年4月まで本ブログ管理者である平民金子が執筆し神戸市広報課サイトにて連載されたコンテンツです。現在神戸市広報課サイトに本コンテンツは掲載されておりませんので、このたび神戸市さんのご好意により本ブログへの転載許可を頂きました。記事の著作権は神戸市にありますが、書かれた内容についてはすべて執筆者にお問い合わせ下さい。本コンテンツに大幅に加筆をした『ごろごろ、神戸。』が株式会社ぴあより出版されています。そちらもよろしくお願いします。

第14回 「お手伝いをしましょうか」

阪神電車元町駅西口。改札を入って、ホームへ降りる階段の手前あたりに「お手伝いをしましょうか」というメッセージとどこか懐かしいタッチの絵が壁に架けられている。架けられているというよりも、外すのを忘れてそのまま残っていると言ったほうがよさそうな風情のそれには、車椅子に乗った人を駅員さんも含めて通りがかった乗客が4人でかついで階段を上がる、そんな光景が描かれている。いま同じ場所にはエレベーターがあって必要な乗客はそちらを利用するので、絵はそれ以前の、ここに階段しかなかった時代の名残りだろう。

25年から30年ほど前か。私が毎日電車を使っていた十代の頃は、このような場面は特に珍しいものではなかった。ホームの階段の手前に車椅子の人がいる。するといつの間にか乗客が3人4人と集まって、かついで移動する。私自身そこでは何か特別な親切をしているつもりはなく、自然な風景としてそんな行為がある感じで、車椅子だけではなくベビーカーや年輩の人の荷物など、何かしらをかついで階段を上り下りした事は何度もある。
それは良くいえば互助の精神が身近なものとして乗客の間にあった頃の話で、悪く言えば、あってしかるべき設備(エレベーターやエスカレーター)が公共の場に普及する以前の、不便だった頃の話だ。

乙武洋匡氏が今年の4月にスポーツ報知のインタビューを受けていて、取材で滞在した実感として東京とロンドンを比較し、バリアフリーの実現度では東京は世界でもトップクラスだけれど、車椅子やベビーカーで困っている人を通行人が声をかけて助ける率となるとワーストになってしまう。ロンドンの場合バリアフリーは東京より進んでいないけれど、自然と誰かが手助けしてくれる社会になっている、というような事を語っていて(念のため註記。これはロンドンと比較して日本が不親切だとか、批判するような文脈の発言ではない)、この事は自分が普段ベビーカーを使って電車移動する時の実感とも重なる所だなと思った。日本では確かに他の国に比べて、乳幼児を連れた親やベビーカーに対して積極的に関わっていこうとする人は少ない。その理由は乙武氏も語っていたのだけれど、決して日本人が不親切だからではなく、単に見ず知らずの人の車椅子やベビーカーに接する事に対して、今は不慣れだからだろう。そしてこの事は、日本の進んだバリアフリー文化とは無関係でない気がした。

自分の経験で言っても、駅の階段で知らない人の車椅子をかついだり、電車に乗る時や降りる時に補助したりした経験はこの10年くらいではおそらく0で、以前は自然と目について自分から関わっていた事が、現在はそのすべてが駅員さんの仕事になっている。バリアフリーが進んだ事によって、車椅子やベビーカーの人に関わって行く事が「自分ごと」ではなく「他人ごと」になっていった。バリアフリーが浸透した結果と、私たちの「無関心(ぜんぶ駅員さんがやってくれるだろう)」は、切っても切れないものだと思う。世の中が便利に、まっとうになって、その結果私たちの間には『線』が引かれたのだ。

しかし、決して忘れてはいけないのは、互助の精神だの線だのと言っても結局それは、手助けする側の勝手な理屈でしかないということだ。
今の私には、彼ら彼女らを『助けて』いた当時の自分には想像出来なかった、あのころ階段の下でじっと誰かが来るのを待っていた車椅子の人のジリジリとした長い時間を想像する事が出来る。
車椅子をかつぎ上げられる側の人には、感謝以上に、さまざまな感情があったはずだ。
そもそも当たり前の事をするのになぜ手助けを待たないといけないのか、なぜ感謝しないといけないのか。
毎回善意に頼るしかないのがしんどくて、電車に乗る事が苦痛になった人だっているだろう。
そんな感情を、想像する事が出来る。

今のようにエレベーターがきちんと設置されていて、当然のこととして駅員さんが助けてくれる世の中の方が絶対的に正しく、皆でかつぎ上げていた時代を都合よく解釈していてはいけない。

それでもなお言えるのは、すぐ近くに助けを待っている人がいて、彼らと自然に関わらざるを得なかった時代の互助の形が、今の私たちに教える事もあるということで、古い不便な時代の人との関わり方をあっさり切り捨ててしまうのはもったいない。

杖をついた人や子供を抱いた母親や年輩者がたとえ立っていても誰も座席から関わって行こうとしない。なんとなく見慣れてしまったそんな光景は、居合わせた人たちが決して不親切なのではなく、単に困っている人に対して自分から関わって行くというコマンドが奥に隠れているだけなのだ。だから、きっかけひとつだよなと思う。たとえば若い人だったら、学校の授業のほんのわずかな時間に「妊婦、病人、老人に席をゆずってあげたらけっこうシブいのだ」みたいな価値観を教えてあげるのはそんなに難しい事ではない気もする。そうして粋な態度を学んだ若者が増えれば、これからずいぶん風通しが良い世界になると思うのだけれど。

先日西元町の駅でベビーカーをかついで階段を下りていたら、若い女性に「いっしょに持ちましょうか」と声をかけられて、私はこの3年間さまざまな場所に子供と出かけたがこのような声がけをされたのが初めての体験だったので(これは単に、私がいかつい男だからだろう)、緊張して戸惑ってしまった。理想的なのは、バリアフリーがいま以上に進んで誰もが遠慮なく出かける事が出来る社会と、ほんの少しの気配りのブレンド
「お手伝いをしましょうか」そんな言葉を日常的に口に出さなくてもいい素晴らしい時代になった今でも、気持ちだけはいつもポケットに忍ばせておこう。そんな事を、この古めかしいポスターを見るたびに思うのだ。