『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』は2017年5月から2019年4月まで本ブログ管理者である平民金子が執筆し神戸市広報課サイトにて連載されたコンテンツです。現在神戸市広報課サイトに本コンテンツは掲載されておりませんので、このたび神戸市さんのご好意により本ブログへの転載許可を頂きました。記事の著作権は神戸市にありますが、書かれた内容についてはすべて執筆者にお問い合わせ下さい。本コンテンツに大幅に加筆をした『ごろごろ、神戸。』が株式会社ぴあより出版されています。そちらもよろしくお願いします。

『ごろごろ、神戸』総目次

ごろごろ、神戸2

第1回 ごろごろ、神戸へ 

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/05/03/120000

第2回 新しいメリケンパーク、魂のレポート

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/05/10/000000

第3回 なだらかな起伏を駆け上がる

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/05/17/000000

第4回 市バス7番に乗って

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/05/24/000000

第5回 子育て世帯にとっての神戸の住みやすさ

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/06/07/000000

第6回 隧道は今日もすいとう、という話

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/06/14/220737

第7回 私の東京

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/06/21/084808

第8回 市場のある風景

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/06/28/000000

第9回 ニセ神戸人宣言

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/07/05/000000

第10回 スマ!スマ!スマ!

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2022/03/27/051607

第11回 「あんぱんまん」

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/07/19/000000

第12回 夏とはつまり……(須磨ドルフィンコーストプロジェクト)

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/07/26/000000

第13回 神戸、安いかき氷特集

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/08/02/000000

第14回 メリケンパーク、行くのがめんどくさい問題

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/08/09/000000

第15回 涼風ジョニー

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/08/16/000000

第16回 一時間で神戸案内

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/08/23/000000

第17回 坂バスの走る町

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/09/06/000000

第18回 ライスカレーの夢

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/09/13/000000

第19回 あの日、あの時の動物園

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/09/20/000000

第20回 須磨海岸でゴミを拾うこと

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/09/27/000000

第21回 鳴尾浜球場に行った話

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/10/04/000000

第22回 ポートタワーに登る日

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/10/11/000000

第23回 「母親」を半分引き受ける

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/10/18/000000

第24回 雨の動物園、台風の夜

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/10/25/000000

第25回 届かない感じ

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/11/01/000000

第26回 神戸港灯台巡り

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/11/08/000000

第27回 つかれた背中を流す日

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/11/15/000000

第28回 ありがとう、神戸マラソン

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/11/22/000000

第29回 すべり台

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/12/06/000000

第30回 犬の話

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2022/08/20/172403

第31回 商店街や市場あれこれ(前編)

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/12/20/000000

第32回 キラキラ

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2017/12/27/000000

第33回 商店街の神様

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/01/10/000000

第34回 ミッドナイト・スペシャ

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/01/17/000000

第35回 「迷惑」の置き場所

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/01/24/000000

第36回 なじみの場所に、さようなら

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/01/31/000000

第37回 恵方巻

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/02/07/000000

第38回 冬の水族館

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/02/14/000000

第39回 これはハルナだな

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/02/21/000000

第40回 摩耶山の思い出

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/02/28/000000

第41回 いかなごとか、ひなまつりのこと

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/03/07/000000

第42回 大丸屋上で豚まんを食べるフェス

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/03/14/000000

第43回 はるかなる粟生線

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/03/21/000000

第44回 宇治川にイルカが

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/03/28/000000

第45回 おすしはリバーサイド

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/04/04/000000

第46回 モトコーにあった中華料理屋の話

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/04/11/000000

第47回 ファンタジー

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/04/18/000000

第48回 海に帰す

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/04/25/000000

ごろごろ、神戸3

第1回 ゴールデンウィークの過ごし方

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/05/02/000000

第2回 生活の柄

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/05/09/000000

第3回 空気坊主

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/06/06/000000

第4回 日々

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/06/20/000000

第5回 視線

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/07/04/000000

第6回 反響

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/07/18/000000

第7回 中華冷や汁研究

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/08/01/000000

第8回 保久良山

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/08/15/000000

第9回 海の家、20号、21号

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/09/05/000000

第10回 いつまでもそのままで

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/09/19/000000

第11回 なつかしさと、都合良さと

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/10/03/000000

第12回 ビッグ赤ちゃんイカリ山

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/10/17/000000

第13回 原田通のイーサン・ハント

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/11/07/000000

第14回 「お手伝いをしましょうか」

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/11/21/000000

第15回 ミナイチ・エレジー

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/12/05/000000

第16回 ふれあい荘のナイトくん

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2018/12/19/000000

第17回 神戸鉄火巡礼

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2019/01/09/000000

第18回 いつもよりあたたかかったので

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2019/01/23/000000

第19回 思い出すのは神戸のことばかり(神戸名所案内)

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2019/02/06/000000

第20回 コロッケのおいしさについて

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2019/02/20/000000

第21回 高菜炒めつくろう

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2019/03/06/000000

第22回 ラーメン屋でセットメニューを注文した時の時間差到着問題

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2019/03/20/000000

第23回 お金のハンバーガ

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2019/04/03/000000

最終回 避けた小道

https://gorogorokobe.hatenablog.com/entry/2019/04/17/000000

最終回 避けた小道

細い路地の向こうには日が当たっていて、やわらかい光の中に黒と、ぶちの2匹の猫が、体をくっつけて昼寝をしている。私は自転車で先を急いでいたのだけれど、視線の先のあまりにも完成された景色に遠慮して、どのような理由があってもそれを壊してはいけないような気がするから、遠回りして別の道を走った。
あたたかい日の午後。数匹の野良猫が路地の真ん中で堂々と寝そべっている時間帯を私は知っている。その時はこうやって遠回りするんだ。でも、通らなかったという事によってなおさら、私の中には避けた小道の情景がありありと浮かぶ。日が当たっている。身を寄せて猫が寝ている。近所のおじさんもおばさんも、猫を避けて歩いている。

久しぶりに銭湯に行った。

今はどこにでもタブレットスマホを持ち込む生活習慣になっていて、風呂やトイレでも何かを読んだり何かを書いたりしている。布団に入る時でさえもスマホを手放さずに、暗い部屋で電子書籍を読んでいる。それは寝る前の楽しみなんだ。でも、銭湯の大浴場には当然スマホは持っていけない。そうしたら結果的に、まったく何もしないぼんやりとした時間を持つことができた。

湯船につかり目を閉じると栄養がいきわたっていくような気がする。この数ヶ月、子供の爪を切る時にピントがあきらかに合いづらくなっていて、近くを見る時の視界がずいぶんぼやけていた。なんだか急に目が見えづらくなって。酒場でそんな話をすると、それ老眼ちゃうのとあっさりと言われ、私は着実に年をとっているのだと思った。湯船のへりに頭をのせて、思いきり足をのばす。

先日人前で喋る用事があって、近所の中華料理店で出される味のないカレーの話をした。普通は家で作るカレーも店で出されるカレーも当たり前の事として味がある。でもその店で出されるカレーには味がしないから、仕方ないなと思ってウスターソースをかけて食べる。店員さんも親切で感じがよい。でも味がしないんだよなと、そのカレーを食べるたびに(そう、何度も食べているんだ)「なんなんこれ?」と思うのだ。それは、文句ではなくて。
好きとか嫌いとかで判断されるものではない。記憶に強く残る感じ。ほうっておけない。心に植えつけられる感じ。『弱虫ペダル』で今泉俊輔が高校入学式の日にママチャリで裏門坂を登る小野田坂道を見て「……なんだこいつは!」と言った時の感じ。このカレーが私は大好きなんだけれど、それを万人にすすめてよいかのかどうかは不明なのだと、そんな話をした。

古い市場でくっちゃべりながら買い物をすることのおもしろさ。狭い路地や、何十年も大事に使われてきた建物の年季の入った魅力、それをどれだけ最高だ最高だと書いてみても、大きく外に広がる説得力はない。色んな人たちから聞かれる事に答え、適当に笑って、下町っておもしろいですね、市場ってすごいですね、なんていう事を口にするたびごとに、自らの言葉の安さが鈍痛のように頭の奥に響く。都合よく町をこわし、都合よく町を消費し、いつだって町に対して安い言葉しか持てないのならばいっそ、なにもかもなくして、新しい風景を見ていた方がよいのではないか。

誰もいない湯船で目を閉じて、ぼんやりと考えていた。

へえ、昔の神戸が好きなんか。あのな、と、震災前の話をされてもとまどってしまう。その姿を私は知りようがないからだ。手の届かないものの魅力を語られてもなあと、居心地が悪くなる。私はあの時、神戸の何も見ていなかったのだといつも思う。それは比喩的な意味ではなく、私のいた場所ではだいたいのものが失われていたのだから。どこかであの時の町と、今ここをつなげる道が必要だと思っていて、せっせと文章を書いてはいるけれど、過去につながるその道には、猫が気持ちよさそうに寝ているから、私には絶対に通ることが出来ない。

体を拭き、脱衣所を出て、生ビールをたのんだ。

細い路地の向こうには日が当たっていて、やわらかい光の中に黒と、ぶちの2匹の猫が、体をくっつけて昼寝をしている。私は自転車で先を急いでいたのだけれど、視線の先のあまりにも完成された景色に遠慮して、どのような理由があってもそれを壊してはいけないような気がするから、遠回りして別の道を走った。避けた小道には、猫だけではなくて、なつかしい人たち、今はもういない人たちもたたずんでいる。

不在によってなおさらありありと心に浮かび上がる情景。思うこと。思い出すこと。思い続けること。それはとても大切なことだと言い聞かせ、自転車をこいだ。

第23回 お金のハンバーガー

漫画『サードガール』(西村しのぶ)を読んでいたら、大好きな時代劇を見るために職場から急いで帰宅したものの冒頭のシーンを見逃してしまい地団駄を踏む美也に対し、同居人の涼が、ボーナスも出たしビデオでも買おうか?と提案する場面があった。美也は「テレビはその時放送してるヤツを見ることに意義があるのよ」「なんたって同時性よ。同時性!!」と言って、ビデオなんていらないと拒む。この場面が描かれたのは1985年。私が子供のころ「ビデオさえあれば日曜の朝に家にいなくてもキン肉マンが好きな時に何回でも見れるのに」と強い憧れを抱いた時期ともぴったり重なっている。当時はまだテレビ番組の放送時間に生活を合わせ、リアルタイムで視聴するスタイルが主流だった。

45歳になったイチローが日本に来て、おそらくこれが現役最後になるだろうという試合の日。私もこの日ばかりはさすがに特別な気持ちでテレビの前に座らないといけない気がしていた。けれど2019年の我が家のテレビには同時性などかけらもない。稀代の野球選手に対し人並み程度の思い入れがあっても「そんなもん知らんがな」とばかりに、電源が付けばプリキュアが始まると思っている子供からゴールデンタイムの視聴権を奪えるはずもなく、あっさりと敗北。今やうちのテレビは地上波をリアルタイムで見るものではなく各種動画配信サービスを見るための子供専用機となっている。一応録画はしたけれど、サードガールの美也ではないが、こういう機会はやはり同時性が大事なのだと思う。

しかし毎日子供用番組しか見られない生活をしていると、それはそれで慣れるもので、むしろ発見する事や勉強になる事も多い。たとえばアニメ『ミッフィーのぼうけん』第29話は、図書館で働くアリスおばさんの仕事を幼いミッフィーとグランティが手伝う場面から始まる。二人はいそがしいアリスおばさんのために本を書架に戻しに行くのだけれど、もちろん分類番号なんかはわからないから、表紙に描かれた絵を見て戻す場所を判断する。最初にグランティが手に取った本の表紙には、大きな星の絵が描かれていた。それを見たミッフィー

「だったらきっと高いところね。お星様だもの」

そう言って踏み台を使い、棚の上に本を乗っけてしまう。
次の本には花の絵が描かれている。

「お花の本はきっと、お花の近くね」

今度は二人は床に置かれた花の植木鉢に本を置いてしまう。
これらのエピソードには、幼児が言語を修得しながら目の前の世界を認識し始める時期に特有の、認識と現実とのちぐはぐなズレが描かれている。ミッフィーもグランティも、星は空にあるものだと知ってはいるけれど、絵本の表紙に描かれた星がただの印刷物であり、決められた分類法によって並べられる「本」の一部なのだという正確な認識にまでは至っていない。幼児にとって世界認識とは、双眼鏡をのぞくと最初は眼幅が合っていないために二つの円形に見えている世界を、徐々に角度を変えていくことで見えやすいひとつの円にしていく作業に似ている。世界のズレを調整し、ピントを合わせる。そうやって何年もかけて自分の認識と世界の様相を整った円形にしていくのだ。

昔から喫茶店に入ると、支払う小銭をあらかじめぴったりとテーブルの上に置いておくクセがあった。たしか去年の夏、ミナイチで買い物を終えて近くの喫茶店「東山」で子供にかき氷を食べさせていた時も、530円をテーブルの上に重ねて置いていたのだ。すると子供がそれを見て
「お金のハンバーガーやね」
と私に話しかけてきた。退屈な分析をすれば、単に語彙が少ない子供がその少ない語彙の中から類推し、目の前の現象を言語化したというだけの話だけれど、私はそのときに、こういう風にして小さな子は手持ちの札の中から徐々に徐々に世の中にピントを合わせていくのかと感動してしまった。

道端に置かれたアロエの鉢を指でつつきながら「イカの足」と表現してみたり。ウクレレを手にとって指板とフレットを見ながら「電車みたい」と言ってみたり。川沿いを歩いて桜並木を見て「桜が川を泳いでいるね」とつぶやいてみたり。夜遅くに米を研いでいると眠れない子供が台所にやってきて、米研ぎの様子を見たいと言うので見せてやると「お米のプールだねえ」と夜中の台所で話しかけられたり。そのような体験は私にとって「かわいい」というような言葉で片付けられるものではなかった。リアルタイムで子供のピント調整作業を見られるのはなんておもしろいんだろう。もう忘れてしまったけれど、誰もがこんな風に言語と現実とのズレを繰り返し調整して、大人になったのだ。

生れてから今まで、子供の散髪はずっと私がやってきたのだが、先日ついに「もう短いのはイヤだ。髪の毛は長いほうが良い」とハッキリとした言葉で宣言された。他人の髪の毛なんて切った事のなかった自分が、びびりながら初めてハサミを入れて、その後は経験と慣れでなんとなくコツをつかみ、今ではそれを心のどこかでやりがいのようにも感じていたのだけれど、今後は私が散髪をするのは絶対に駄目だと一夜にして本人からクビを宣告されて、まあそれは……ショックを受けなかったというとウソになるけれどそれ以上に、きみはなんて一人前の会話をしやがるんだと感心した。

散髪だけではない。肩車にしてもそうだし、もう一日中体を触れ合わせているような付き合いは徐々に徐々に、終わりになってきている。使う言葉も日に日に増えてきて、今ではアロエの鉢を指さしてイカの足だと言う事もない。言葉と現実のズレはこうやってだんだん少なくなり、会話が出来るようになって、そうこうしているうちに子供は学校に入り、さらにたくさんの言葉や世界を手に入れて……。
やがては私たちはお互いの手を離し、別々の世界で勝手に生きていくのだろう。
と、まだそこまで考えるのは早いか。

もっとも子供とべったり過ごしたこの二年間を神戸市広報課で連載出来て、まあまあありがたかった。 他の場所でなら絶対に書かないが、公的な場所だからこそあえて使った表現もある。 それは「子供や、何よりも子供を連れて毎日がんばっている親にやさしくしていこう」なんていう折れそうな言葉だ。 他人を変えようとは思わない。けれど私はこれからも、自分がそうしてほしかったように、育児に懸命な大人たちに無条件でやさしい人間でいようと思っている。 私がこのベビーカーをたたむ日も近い。次回が最終回です。

第22回 ラーメン屋でセットメニューを注文した時の時間差到着問題

みなさんこんにちは。
遠くのほうに座っている方も聞こえますか?

すいません、マイクの音量を少し上げる感じで、はい、もう少し。
はいはいこれでOKです。

ごめんなさい、声が小さくて。
さてあらためまして、こんにちは。
今回は「ラーメン屋でセットメニューを注文した時の時間差到着問題」についてお話させて頂きます。

みなさん、今日のお昼は何を食べましたか? あるいは、これから何か食べられる方もいらっしゃるかと思います。
うどん、とんかつ、寿司、カレー? はいはい、違います。
みなさんが食べていいのはラーメンセットだけです。

扉をあけて、入るのは町の小さな中華料理屋。
のれんには「ラーメン」「中華料理」
神戸だったら「中華洋食」なんて書かれているお店も多いですね。

このような個人店は調理をおやじ一人でやっている場合が多いので、カウンターに座ってセットメニューを注文した時に、私たちは必ずひとつの問題に直面します。

それが今回講演のタイトルにもさせて頂きました「時間差到着問題」というものでございます。
おやじが鍋を振って、出来たものから先にカウンターに置かれていくために、商品が必ず時間差で到着するという現象ですね。

それの何が問題なのか?
日本で最初の中華料理屋がオープンしてから100年ほどたちますでしょうか。今のようなセットメニューが出されるようになったのは、おそらく戦後からでしょう。
それからずっと、つい最近までは「問題」なんて存在しなかったのです。
完成したものから料理が出て来るのは当たり前ですから。

誰もがそれを普通に食べて、食べているうちにもう片方の相棒が来る。
気楽なものだったですね。つい最近までは、それが普通だったんです。

しかしみなさん、時の移ろいは早いもの。今は2019年、SNSの時代です。
注文したものを食べて、お勘定して店を出る、それだけで済んだ時代では、もうありません。
現代は誰もが表現者となり食べたものを写真に撮ってSNSに投稿し、世間様の評価を競う大戦国時代。
食べる前に料理の写真を撮るという事がいまやごくごく当たり前の光景となりました。

天ぷら、カツ丼、親子丼。イタリア料理にタイ料理。
何でも食べる前にパシャッと一枚撮って、それらの写真はすぐさまSNSに投稿され、家族や友人だけではなく見ず知らずの人間に向けても共有されます。そして多くの共感を集めた写真には何千、何万と「いいね」が付く。
そんな時代におきまして、料理の時間差到着は「いいね」獲得への大きな障害となってしまう可能性があるのではないか。「問題」などと書かせて頂いたのはそういった事情からでございます。

個々で注文しているぶんにはいいんですよ。
チャーハンならチャーハン。ラーメンならラーメン。
それだけで完成された写真を撮って投稿すればよい。
しかし、私たちが頼んだのがあくまでもチャーハンとラーメンの「セット」である以上、先に到着したチャーハンだけを個別に撮影してしまうとなんだか自分に嘘をついているような、ハンパな気分になってしまいます。あっ。

(小声)そんな事を言っている間に、中華鍋の音が静かになりましたね。
チャーハンが出来たのでしょう。

ご主人「へい、お待ち」

あああ!!!
まるで広いテーブルの上にチャーハンが太平洋ひとりぼっち堀江謙一さんのマーメイド号のように孤独に浮かんでいる。そのように形容したくなるチャーハンの姿です。

みなさんがラーメン屋でセットメニューをたのんだ時に投稿したいのは、例えばこのように料理がそろった状態での写真ではないでしょうか?

ひるがえって、いま私たちの置かれている状況は、このようなものです。

野球に例えると、菅野智之だけがマウンドに立っていて、小林誠司がいない状態。
杉浦忠だけがマウンドに立っていて、野村克也がいない状態。
谷繁元信だけがキャッチャーミットを構えて座っていて、川上憲伸がいない状態です。

この状況において、ラーメンが到着するまでの時間をどのように過ごせばよいか。
まず一般的に取られやすい対策と、それに対する私の意見を述べてみたいと思います。
こちらのホワイトボードをご覧ください。

・対策その1
最初から「全部そろった写真を撮るのが目的だ」と開き直って、チャーハンにはまったく手をつけない。

これはやめたほうがいいですね。何もせずにチャーハンがテーブルの上に放置されているのは、お店の人にとっては気分の良いものではないと思います。SNS投稿は大事ですが、お店で一番えらいのはやはり私たち客ではなく店員さんであり店主ですから、料理を作ってくれた方が不愉快になってしまうようなことはしてはいけません。
次どうぞ。

・対策その2
ちょこまか動いて時間をつぶす。

これは意識的、無意識的に関わらず誰もがおこなっているメジャーな対策かもしれません。
たとえば割り箸の先っぽをシャッシャッとこすり合わせて先端部を整えている風を装ってみたり、
テーブルの調味料を手にとって確認するそぶりを見せたり、
くちびるを濡らす程度に水を、少量口につけてみたり。
そのような、一種類につき数秒程度の短い時間を稼げる行動を何パターンか組み合わせて、全体として数十秒から1分弱ほどの時間を作る。その間にラーメンの到着を祈るという作戦です。
しかしこれもやりすぎると不自然なので注意してください。料理に手をつけていないことには変わりないので、お店の方に不審がられる可能性は高いです。

さて、みなさん。
あれ? 会場がざわついて来ましたね。
みなさま揃って、「では、どうすれば?」というような顔をしておられる。
はい、お静かに、お静かに。

ここからいよいよ本題に入ります。
本日は私たちを長年悩ませてきたこの「ラーメン屋でセットメニューを注文した時の時間差到着問題」に対する革命的解決方法をお伝えするために、私はここに来ました。
え? 信じられない? す・ぐ・に、わかります。

おそらく会場のみなさんは今日この会場を出られたらさっそくラーメン屋に入られるかと思いますが、
その時からいきなり、これから私がお伝えする方法を使っていただきたいと考えております。
この話を聞いた後では、みなさんの世界はすっかり変わっているはずですよ。
だって、もうラーメンが来るまでの間ぼーっと待つ必要も、
ちょこまか動いて気をつかいながら時間をかせぐ必要もないんですから。

では、説明に入りましょう。
ラーメン屋でセットメニューを注文した時の時間差到着問題。
その解決法は、「チャーハンをはしっこからゆっくり食べていく」です。

私は普段からうす汚れたような写真ばかり撮っているんですが、部分的にものすごく潔癖なところがありまして、食べかけた料理とお皿の写真だけは美学としてどうしても載せるわけにはいかないんですね(これはあくまでも私の性質について語っているだけで、食べかけの写真を撮る人を否定している言葉ではありません)。
ですのでこのようなボカシ処理で申しわけありません。

はい、そこのお嬢さん。そうですそうです、眼鏡をかけたお嬢さん。
今あなたはお連れさんにこうささやきましたね?
「そんなことしたら普通に食べかけの写真になってしまうやんな?」と。
大丈夫です。え? なんか信じられない? フフフ。

(小声)さあ、麺を湯切りする音が聞こえてきました。
もうすぐラーメンが到着するでしょう。

ご主人「へい、お待ち」

ここからが本番。この時の全体図がこうなっています。

 

いきますよ。カメラを寄せて~~…………

 

 

手をつけていない部分のチャーハンだけを写す!!!

 

チャーハンセットなう!!!!!
その手があったか!!!!!!!
この写真を見て誰が「このチャーハン半分食べてるやろ」と気づくでしょう?
私はこれを「神戸式撮影術」と名付けました。

えー会場のみなさん、お静かに、お静かに。
どうぞお静かに。
すごい反響ですねえ。みなさん、驚いたでしょう? お静かにー。

神戸式撮影術があれば、もう長年私たちを悩ませていた時間差到着問題をおそれる必要はありません。
これは間違いなく、SNS時代の撮影スタイルを変えるでしょう。
今日この会場に来られたみなさんは、時代が大きく変化する最初の、一日目の目撃者であるわけです。

ご主人「へい、お待ち」
おっと、今度は中華丼がやってきましたね。

 

こちらも神戸式撮影術でこなしていきましょう。
カメラを寄せて~~…………

 

 

手をつけていない部分の中華丼だけを写す!!!
中華丼セットなう!!!!!

 

 

ご主人「へい、お待ち」
今度はオムライス。手強いですね。それでも神戸式撮影術があれば簡単です。

 

 

いくぞ!
カメラを寄せて~~…………

 

 

手をつけていない部分のオムライスだけを写す!!!
オムライスセットなう!!!!!!!

 

 

私の講演は、以上です。
お忙しい中、ありがとうございました。

第21回 高菜炒めつくろう

妹から姉に「雪だるまをつくろうよ」と呼びかけるのは、映画『アナと雪の女王』においては「(姉さんの)魔法をつかって遊びましょ」というサインだ。姉のエルサはどんな時だってそう言われれば仕方ないなあと、指先から氷を飛ばしたりお城の中に雪を降らせたり地面を凍らせたりして相手をしてくれる。でもある時からとつぜん、大好きな姉が自分を避けるようになってしまった。アナにはその理由がわからない。
理由がわからないまま愛する人から関係を絶たれるほど、残酷なことはないだろう。

姉のエルサは、過去に氷の魔法を誤って妹にぶつけてしまい、そのせいでアナは傷つき意識を失ってしまう。エルサはうろたえ、両親からは力や感情を制御して生きることを要求される。自分のせいで重体となった妹は、妖精トロールの力によって無事に意識を取り戻す事は出来たが、代償として姉の魔法に関する記憶はすべて消去されてしまった。エルサは妹にその事を伝えることが出来ず(本当のことを言えず)、日ごとに強くなっていく自らの魔力もコントロール出来ない。いつしかエルサは部屋に閉じこもるようになる。

そんな中で、かつては「いっしょに遊ぼうよ」という幸せな符牒であった「雪だるまをつくらない?」という言葉は、今では妹アナの孤独なつぶやきとして、劇中でかなしく歌われるのであった。
私はだいたい三ヶ月に一回アナ雪を見るように自らにノルマを課しているため、先日かれこれ二十数回目の鑑賞をしながら、ふと、もし自分が姉のエルサだったならば、と考えた。
雪だるまを作ろうと言われても動かへんと思うけど「高菜炒めをつくろうよ」と呼びかけられたら私(エルサ)は動かずにいられる自信がないなあと思ったのだ。

扉の向こうからこんな風に、アナの歌声がきこえてくるのである。


(イントロ)
高菜炒め作ろう♪
古高菜買って~♪

 

 

ざく切り♪ ごま油♪
砂糖と酒を投下~~♪

 

 

みりん 味の素♪
醤油をまわしてかけて~♪

 

 

仕上げにゴマあぶら~~♪

 

 

アナ「ほら、簡単でしょ」


もし、こんな歌声がきこえてきたら、間違いなく私は我慢できず、
「せやな。ひとつだけ言わせて。醤油はケチらずエエもん使いや」
などと言って扉を開けてしまうだろう。

(アナの声)
「料理の手順をおさらいするね。古高菜を細かく細かくザク切りにするの。油は多めで作ったほうがおいしいから、最初に炒めるのはサラダ油を使っていいわ。ごま油は高いからね。砂糖は小さじ1半くらいでいいから必ず入れて。私は料理にあまり砂糖を使わないんだけど高菜炒めだけは別。コクっつうか深みが出るのよ。それをちゃっと炒めて、酒はお玉に七分目くらい。みりんは大さじ1くらい。あとは味の素。適当なタイミングで粒ごま。唐辛子を大量に入れて、最後に醤油で味を付ける。醤油の分量は、料理に慣れない人が作るとたぶん味の薄いものができるんじゃないかな。だから「ちょっと入れすぎちゃうかなあ」くらいに思いきって入れてみてね。仕上げにごま油をフライパン1周2周、回しかけて風味をつけて。出来た高菜炒めは冷蔵庫に入れておけば10日くらいは余裕で持つから経済的よ」

ちなみにエルサ(私)は、高菜炒めを使ったお茶漬けがめっちゃ好きやねん。
エルサが小学生の時に大好きだった料理は、砂肝にポン酢をかけたものと、温泉卵と、高菜茶漬け。
今でもその三種の神器は変わらず大好きで、特に高菜炒めは冷蔵庫に常備しています。
アナはそのへん、わかっとるわな、と。

ご飯に高菜炒めをのせて上から冷たい茶を、どばっとかける。
そいつをシャカシャカシャカッとすすっているだけで「これでええやん」という気分である。

アナ「姉さん、高菜炒めも作ったし、仲直りのしるしに今日はノースマウンテンに行かない?」
エルサ「そうね。雪の溶けたノースマウンテンに登ってアレンデールの町を見ながら

 

(イントロ) 高菜茶漬けつくろう~♪ ごはん詰めて~♪

 

 

高菜はたっぷり♪
好みで海苔をのせて~♪

 

 

(セリフ)
エルサ「ほら、氷の城へ続く階段よ」
アナ「スヴェン(トナカイ)がずっこけた所ね!」

 

 

(歌のつづき)
自販機で買った~お茶を~♪

 

 

そのま~まぶっかける~♪ (オラフ「やあアナ、エルサ。ぼくも来たよ」 オラフ=にんじんしりしり)

 

 

アナ雪茶漬けの~♪
できあがり~♪

 

 

アナ「この季節のノースマウンテンは最高やね~」
エルサ「アウトドア高菜茶漬け。やっぱりこれが最高やん?」
アナ「春の日差しで、屋根がきらきらしとーね」
エルサ「ええやん。これでええやん」

 

 

fin










茶漬けを食べましょう。長田か板宿あたりからぶらぶら時間かけて歩くか市バス11系統の鷹取団地前で降りるといいわ」

 

 

第20回 コロッケのおいしさについて

二十代で自炊生活を始めた時、おい、これどないなっとんねんと驚いたのは、自分で作った筑前煮がめちゃくちゃにおいしかったことだ。ダシはスーパーで買った粒状のもの。調味料も醤油、砂糖、酒、みりんくらいで、特別な材料は何も使っていない。当時はパソコンもなかったから図書館で料理の本を借りてその通りに作っただけだと思う。しかしそうして出来たごく普通の筑前煮は、これまで家庭や学校給食で食べたものとは別次元の味だった。なんだこの深みは。なんだこの重厚感は。などと考えてみたところで、コイツがおいしく感じられる理由はひとつしかない。自分で作ったからである。

いままでは他人が作ってくれたものを食べることしか知らなかった。けれど一人で八百屋に行って食材を買い、部屋に帰ってそれを切り(野菜にはそれぞれの切り方があることを学び)、炒め、味をつけ器に入れ、その後の洗い物も含めて料理の全工程を自分の責任でおこなうことで、食べる時に箸でつまんでいるこのニンジンがどのような道筋でいまこの瞬間舌の上にのっかっているのかという物語が明瞭に見える。そうしたらこれまで別に好きでも嫌いでもなく、地味な惣菜あつかいしていた筑前煮がどんな食べ物よりもおいしく感じたのだ。

それは自炊世界における味覚の扉が開いた瞬間だった。「味」は単に舌だけで判定すればよい単純なものではなくなって、各素材や調味料や部屋や俺や町や東京が奏でる壮大な交響曲となったのである。

それから私は家庭料理の奥深さにハマり、頭髪を剃り片眉を落とし台所を中心とした家事全般の求道者となった。そしてすぐに気づくのだ。自分が作った世界一の筑前煮もそれを食べさせる第三者にとっては、ただの筑前煮にすぎない。

生きているかぎり休みなく日々が続く家庭料理のシビアな世界で、私が筑前煮に感じたおいしさの境地に達することが出来るのは、あくまでも作り手だけの特権である、と。

たとえば、作る人間というのは出汁の効かせ具合や微妙な塩加減も逐一見ているので台所の鍋の前に立っていると薄味の美しいグラデーションがとても詳細に理解できる。しかしそれをそのまま食卓に出しても食べる人にとっては単に「うっすいなあ!醤油かけていい?」としか感じられない事がある。

先日、手間ひまかけてコロッケを手作りしたが、配偶者が何も言わずにいきなりソースを大量にぶっかけて、ちゃんと味わう様子もなくあっさりと雑に食べてしまい、それを見てもう作ってあげる気をなくした、というようなSNSのつぶやきを見かけて、この作り手のいらだちはなんとなくわかる気がするんだけれど、でも先ほど書いた「作り手だけの特権」という話を当てはめると、味のグラデーションへの理解を食べる側に求めすぎてしまうのは、若干酷であるような気もした。作る側と食べる側とでは、ひと皿の料理を前にして受け取る情報量が圧倒的に違っているのだから。

コロッケって作るのに手間がかかるわりには気軽な大衆食としか理解されていないので、作り手と食べ手との熱量の違いからくる不幸な摩擦がもっとも起こりやすい料理だと思う。もうコロッケは二度と手作りしねえ!なんて話を私は過去に何度か聞いたことがあるんだ。料理の知識や経験のない人は往々にして、目の前の配偶者が時間をかけて作ったコロッケもスーパーやコンビニのコロッケも同じ地平に並べて見てしまう。
なんだ、今日はコロッケか、ふーん。

近年、なんとなくいいなと印象に残ったコロッケ描写は漫画『きのう何たべた?』10巻で主人公の二人がアパートでコロッケパンを食べる所だ。一人が材料をこねて、もう一人が揚げてと調理を共同で行ない、出来たらいっしょに食卓を囲んで食パンにキャベツとアツアツのコロッケをのせる。そして、そんな風に手間をかけたコロッケを二人して「これだよな~~これこれ!」なんて言いながらソースをドバっとかけて豪快に食べる。

これは見ていて気がラクになるようなコロッケ描写であった。いっしょに料理をして、いっしょの世界を見て、そして食卓につく。最後にはせっかく作った積み木を勢いよく崩すように気持ちよくソースをぶっかけて、お互いが笑顔でそれにむさぼりつく。この回は家庭でコロッケを作り、食べる理想形であるような気がした。

ちなみに神戸は、揚げ物の国である。
あちらこちらの町に、商店街や市場に個人営業の肉屋や惣菜屋があり、店先で揚げたての物を売っている。言えばすぐに揚げてくれる。まるで「コロッケは俺にまかせとけ。もう家で作るな。無理せんでええ」とでも言われているような勢いだ。こちらに来て以来私にとってコロッケは、手作りを家で食べるものではなく、肉屋の店先で揚げたてを買ってホクホクと路上で楽しむ最強贅沢な食べ物となった。

というわけでコロッケを作るが大変でしんどい人は神戸に引っ越してしまえばよいのではないか。
いらいらしている人は出来たてのおいしいコロッケを公園で食べて、ついでにビールを飲んで、酔っ払っていろいろと忘れよう。日に日にあたたかくなって梅の花も咲き始めた公園の日差しの中で、アッツアツのコロッケと缶ビール。
かのフェデリコ・フェリーニも映画の中でこう言っている「人生は祭りだ。ともに太ろう」。

第19回 思い出すのは神戸のことばかり(神戸名所案内)

おととし「一時間で神戸案内」を書いて湊川エリアの商店街や市場を軽く紹介してみたら、思いのほか多くのリアクションを頂いた。「ごろごろ、神戸2」で書いていた場所に行ってみたよ、などと言われるといくら性格がねじくれた私でもうれしいものだ。それも他府県から旅行でやって来た人が貴重な時間を割いてまでそんな事をしてくれるなんて格別である。もしかしたら、このような変な広報ブログを読んでいる人は、私が案内する決してアッパーとは言えない、ちょっとくたびれたおっさんの若干フケの落ちた背中みたいな神戸を歩きたがっているのではないか。なに? 書いたらその通りに行ってくれるって? だったら調子に乗って他の場所の事も書いてみるかと、そんな気になったのである。というわけで今回は、年始の寿司屋巡りで金を使い過ぎたので金がかからない神戸案内をしたい。途中でおなかがすいたら大きく息を吸い込んで、空気を食べる。

まず最初は、昨年完成した直後から私がひとりで素晴らしい素晴らしいと大騒ぎしているJR・阪神元町駅前の巨大ベンチに座ってほしい。もう、いっそどこへも行かずにここで一日過ごしたっていいくらいだ。冬の寒さは体をゆすっていればなんとかなるだろう。夏の暑さも、たとえば8月にラジオで野球を聞きながらこの場所でビールを飲んでいるとまるで無料だった頃の甲子園球場外野席(高校野球)にいるようである。
このベンチは私にとって、近年神戸市がやってくれたいちばんありがたい事業なのだ。元町駅は三宮に隣接する都会であるにも関わらず、そんな駅前の超一等地に老若男女、赤ちゃんから動物までみんなが何もせずにくつろげるスペースを作ってくれた。ありがたいこっちゃで。

初めて神戸に来た人と待ち合わせをする時でも「元町駅東口を出たら目の前にでかいベンチがあるからそこに座っといて」とだけ言えば絶対に迷わない完璧な待ち合わせ場所である。どこでも人が集う場所がそうであるように、ごくたまにゴミや吸い殻を捨てている人を見かけるが、私はもうこのベンチが自分の家みたいな感覚になっているので、たのむから大事に使ってくれと心配になる。これから何十年たっても、元町の名物としていろんな人から愛される存在であってほしいものだ。……というような、誰も聞きたくはないであろう私の巨大ベンチ讃歌を8時間ほど聞いた後は、三宮方面に歩きましょう。

元町駅から三宮方面に伸びる商店街(三宮センター街)はキドキドがあった頃毎日のように通った道なので思い出深い。歩くとすぐにトアロードにぶつかり、そこからはセンター街と三宮本通商店街の、2本の商店街に別れる。その左側、センター街2丁目と書かれた商店街に入るとすぐ頭上に献血センターの目立つ看板が見える。それを目印に左を向くとセンタープラザ西館の入口だ。一階のエスカレーター前には愛用の中華鍋を買った西尾調理道具専門店があって、炎の料理人でもある私はそこで各種調理器具にまつわる講釈を垂れたいが、それは神戸案内とは関係ないので省く。

三宮は大規模な再開発が行われるのでこれからの数年で大きく大きく町なみが変化する。つい最近の神戸新聞ではついにこのエリアの事が触れられていて、まだ「再整備に向けた調査に着手」という段階だから時間は相当かかるだろう。数年でこの一帯がどうにかなるとは思わないが、しかし10年15年先にどうなっているかはまったくわからない。ぶらぶら歩きながら壁に貼られた避難経路図を見ているとJRではなく国鉄と表記されていて、こういうのを見ると私はうれしくなるのだが、つまりはそういう場所なのだ。

このあたりはセンタープラザ西館、センタープラザ、サンプラザと3つのビルがくっついていて、地下を歩けば膨大な数の飲食店や古い市場、地上二階三階にはゲーム、おもちゃ、食器、漢方、喫茶店、フィギュア、プラモ、漫画、楽器、レコード、パソコン、服、下着、宝石まで何でもかんでもあれやこれやと店が並んでいる。何よりもこの一帯はトレーディングカード愛好家が集う場所でもあり、各店のデュエルスペースと呼ばれる対戦場所をふらりとのぞくと、大阪ジャンジャン横丁にある将棋の社交場、三桂クラブを思わせる盛り上がりである。三桂クラブの前を通ると「なぜ自分は将棋をやっていなかったのか」と悔しい気分になるが、センタープラザを歩くと「今からでも遅くないからカードゲームの勉強をした方がいいのではないか」とあせる気持ちになる。やけくそ気味に書くとこのあたりは神戸の中野ブロードウェイなのだ。中野ブロードウェイをもしご存知ない方がいたら適当に調べてほしい。東京の中野にある大変ややこしくて大変過ごしやすいビルです。

センタープラザ西館からセンタープラザへと通じる通路(二階部分)には、ひなびた休憩所がある。私は疲れやすいのでベンチが大好きだ。ちなみにこの休憩所に建っている銅像の名前こそが、声に出して読みたい日本語ランキング兵庫県第4位「港のセブンティーン」である。「神戸に行って港のセブンティーンを見てきたよ」と言えば誰もがうらやましがるだろう。ちなみにここは愛煙家が集う場所でもあるので、苦手な人は他のベンチをあたろう。他とはどこかというと、この休憩所のすぐ目の前から三宮センター街を挟んだ向かいのエイツビル(ジュンク堂がある所)に渡るための高架通路があるので、そこを渡れば謎の大量ベンチ軍団と出会えます。

謎と書いてみたが別に謎ではない。これは2017年から3Fストリートという名前で、学生さんが色々設計してくれて、その結果ありがたいことにスペース全部を木の椅子だらけにしてくれたのだ。考えてみれば元町駅前ベンチもデザインしてくれたのは地元の学生さんである。これからは若者をリスペクトしながら生きるようにしたい。この椅子ロードは出来たばかりだからか通る人もあまりいないので、週末などどんなに下の商店街が混雑していても余裕を持って座れます。

しかしいま休憩所からここまで来た道のように、商店街の二階部分に高架通路があって人々が歩く上空を行ったり来たり出来るハイカラな場所を私はもうひとつ知っている。そう、それは我らが湊川商店街である。写真を並べてみるとどうだろう、どちらが湊川商店街でどちらが三宮センター街かまったく区別出来ないではないか。この場所を今日から、三宮の湊川商店街と呼ぶ事にしよう。

ちなみに、来た道を戻って今度はひなびた休憩所のすぐ真上に行ってみて下さい。ここは3階部分の連絡通路になっていて、船舶窓を模したような丸窓がある。この丸窓こそが「神戸の尾州不二見原」と呼ばれる(一応注。呼んでいるのは私ひとりです)葛飾北斎ファンの聖地なのである。私は通りすがりに雑に撮影してしまったけれど、阪急電車と道行く人々と神戸の山を1フレームにおさめる事が出来るのだ。どうですか、ここまで「港のセブンティーン」「三宮の湊川商店街」「神戸の尾州不二見原」と市内重要名所を訪ねてきた。絶対に試験に出ると思いますよ。

そして、ようやく会えたね、という感じのマゼランくんと三宮名物チンアナゴ時計である。
場所は、センタープラザとサンプラザの間の2階広場。
(先ほどからセンタープラザ西館とかセンタープラザとかサンプラザとか、いちおう私は地元なものでビル名を書き分けているが、そんなものは他府県の方にとっては知ったこっちゃないだろう。だから別に気にしなくてもよいです。よくわからんけどごちゃごちゃとした一帯、くらいの認識でお願いします。)

思わず拝みたくなる立派なお姿。昔は時計の上のピエロが動いたのかな? 今もネジ回しの人形だけは30分に一回音楽といっしょに律儀に稼働している。そして、下を見ると神戸では須磨海浜水族園にしかいないと誰もが思っていたチンアナゴたちがこんな場所に。書かれた都市名を見ると、これは神戸市の姉妹都市の時刻をしらせてくれているのだろう。ちょうど知りたかったんだよなブリスベンの時間。この場所に立ってしばらく時計を見上げ、「マゼランくん」と書かれた字体に感動し、しゃがんでチンアナゴ時計を眺めているだけで、神戸にやって来て良かったという気がしませんか。私はします。

この場所も、三宮地区がこの先新しくなったら今まで通りではいられない気がするんです。マゼランくん(マゼランくん…!)っておそらくセンタープラザが出来た頃に建ったものだと思うので、近づいてよく見ると見た目にもだいぶ疲れた感じがするんだ。だって私と同い年だもの。このピエロの後ろ姿。動かない体。ほこりのつもった背中。私だって同じように疲れている。共感すんだよな、このくたびれた感じに。

さて、もう引き返そう。私もあなたも、たぶん人がたくさんいる場所が苦手なのだ。
元町駅前ベンチに戻って夜の八時半ころまで時間をつぶし、ここから高浜岸壁に向かいます。

歩いても別に遠くはないが寒いので、電車に乗ってJR神戸駅(か高速神戸駅)まで行こう。
そこから地下道(デュオ神戸)を歩いてハーバーランドに出るのが一番迷わないしラクです。
この時間になると、地下道もハーバーランドも駅方面に帰る人の方が多くなるのだけれど、我われは流れに逆行し、何もない夜の岸壁に立つ。すると10分ほど待てば遠くのほう、真っ暗な海に船の灯りがぽつんと見えてくる。
それがだんだんだんだん、こちらに近づいてくるんだ。だいたい21時10分くらいかな。

「この時間のこの場所が最高なんだよ」という話をこれまでに何人もの神戸人にしてみた。
けれど100パーセント馬鹿にされてしまうのだ。きみはなんてミーハーなんだ。シタマチを愛する男じゃなかったのかと。しかし私はなんと言われようとここが絶対に最高なのだと言い張って譲らない。

なぜ自分がこの風景を愛し過ぎているのか考えたんだけど、それはあくまでも個人的な経験であるのだが、大昔に人間関係をすべて断ち切って「おれは本当にひとりになった。せいせいしたぞ」と部屋にこもり映画や本にばかり耽溺していた時にフェリーニの『アマルコルド』を見たのだ。それは小さな港町の一年を追った作品で、登場人物それぞれに人生色々あるわなみたいな感じなんだけれど、ある時、見た事もないようなでかい船が港に来るらしいぞ、みんなで見に行こうぜ、となって大騒ぎとなる。みんながゴザとか弁当持ってわくわくしながら海に繰り出すんだけど船はなかなかやって来ない。そして誰もが騒ぎつかれてあきらめそうになった夜、ぼうっと大きな汽笛が鳴って、ようやく船が来た、いろいろあるが今なんかすごく楽しいぜ、みたいなその場面がずっと印象に残っているのだ。この場所で暗い海から浮かびあがってくるコンチェルト号の灯りを見るたびに、昔見た映画の場面を思い出してしまう。船が来たで、すげえな、ぜんぶOKやんけ、と。

船着き場の目の前はモザイクで、二階に上がると「海の広場」という犬や猫も連れていける場所があってそこにも大きなベンチ(というかウッドデッキ)がある。
ベンチで始まりベンチで終わった、のんびりした旅である。私は神戸が好きなのか単にでかい木のベンチが好きなだけなのかわからないが、とにもかくにも最後には船がやって来た。

というわけで、このフェリーニを語ったら、イタリアの虹を語っているみたいで、とっても語れません。イタリアの夏の花火を語っているみたいで、とっても言えません。好き好き、好き好き、好き好き、好きですね。 (淀川長治映画塾)

神戸の大偉人である淀川長治が遺した映画にまつわる語りの中で特に印象に残っているのがフェリーニの映画について語ったこの場面だ。何かを好きになる気持ちを前のめりに表明することのすばらしさが詰まっている。
私はいつまでたってもこの場所に無性にときめいてしまう自分の気持ちを大切にしようと思うのだ。
そしていつか子供にもこの場所で長い話を聞かせるのである。馬鹿にされるかもしれんけど。