『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』は2017年5月から2019年4月まで本ブログ管理者である平民金子が執筆し神戸市広報課サイトにて連載されたコンテンツです。現在神戸市広報課サイトに本コンテンツは掲載されておりませんので、このたび神戸市さんのご好意により本ブログへの転載許可を頂きました。記事の著作権は神戸市にありますが、書かれた内容についてはすべて執筆者にお問い合わせ下さい。本コンテンツに大幅に加筆をした『ごろごろ、神戸。』が株式会社ぴあより出版されています。そちらもよろしくお願いします。

第13回 原田通のイーサン・ハント

前々から受講したかった灘大学に今季ようやく申し込む事が出来た。さっそく初回の講義では、当地で創業90年になる萩原珈琲さんの歴史を学ぶ。今まで知らなかったのだが、会場である原田資料館の近くには大正13年からの歴史ある和田市場がかつて存在して、萩原珈琲はそこから始まったのだという。会社沿革を見ると当時の所在地は武庫郡西灘村字原田620。質疑応答の時間になるとかつて和田市場に暮らしていたという年輩の方が挙手をされて、先代先々代がいた頃の市場の様子をありありと語っておられた。

なくなった市場について話す。もしかすると、神戸に暮らしている限り、いつか自分もそのような立場になるのかもしれない。そんな事を考えながらの帰り道、駅近くの交差点のあたりで突然、女性の悲鳴が聞こえたのだった。

これは何事かと思い周りを見渡すと、視界に入ったのは犬のリードを持って呆然とする女性と、少し離れた場所にはリードが外れた状態でこちらを見ている小型犬。犬の挙動にはそれなりに慣れているので見た瞬間に「あ、これは絶対に追いかけたらあかんやつ(余計に興奮して逃げる)」と判断する。この場で出来る最良のアクションは、警戒しながらこちらを見ている犬との距離は詰めず、飼い主はしゃがみ込んで視線の位置を下げるなどして警戒心を解いてやり、その間に周囲の人間がコンビニ等に行ってフライドチキンでも何でも、この際犬の体に悪かろうがとにかく興味を示す食べ物を与えておびき寄せる事だろう。とにかく今、動揺して追いかける事だけはしてはいけない。

なんて事を考えて対策に移れたわけではなく、ひどくあわてた女性は犬の名前を呼んで駆け出してしまう。予想通りさらに興奮状態となった犬は飼い主が遊んでくれているとでも思ったのか、よりによって最悪の選択肢である幹線道路に飛び出してしまった。こうなった時点で私はとっさに「あの犬は近い将来、最悪の結果になる可能性がこれで一気に高まった。良くて迷い犬。たぶん車にはねられる。もう、行くしかないだろう」と判断する。その間にも犬はバスやトラックが走る車道を無邪気に駆けていて、もうイチかバチかに賭けるしかないと私は道路に飛び出した。

と、ここまでは良いのだが、そもそも小型であれ大型であれ犬が本気で走ったらなかなか人間が追いつけるものではないのだ。追えども追えども距離は縮まらず、優雅に車道を駆ける小型犬。頭の中でミッション・インポッシブルのテーマを流し映画で見たトム・クルーズのフォームを真似て走り出したのも束の間、普段からまったく運動などしていない私は犬とは正反対の余裕の無さで心臓が破れそうである。目の前で無邪気に幹線道路を走る小さな後姿を見ているのが非常につらい。最初に飛び出した自分の選択は間違っていたのか。あのままにしておけばあいつは何もなかったように歩道に戻って来ていたかもしれない。もう、今すぐにも車に、バスに、バイクに、トラックにはねられる未来が見えるようだった。もうどうすればいいんや…………。そんな、絶望的な気分になっていた時、道路の反対側から猛然と私を抜き去って犬を追う若者がいた。ここから、彼の大追跡が始まる。

原田通、城内通、城内歩道橋、灘北通。土地勘のない私にはどこをどう走っているのかさっぱりわからないが、とにかくあの犬を車道から歩道に戻さないと。すでに飼い主がどこにいるのかもわからない。私はぜえぜえと若者の走りについていく。膝と心臓が限界だと訴えている。反対車線を猛スピードを出す車がすれ違う。ある時は車を止めたり、犬に気付いて車から止まってくれたり。そしてようやく歩道へと入って来た犬をなんとかおびき寄せようとし、距離が最大限に縮まった時、手を伸ばした私たちをすり抜けて犬はまた何事もなかったように車道に戻って行く。私は気持ちが折れてしまった。もう、力が出ない。

ふらふらと、どれだけ歩いただろうか。
飼い主も見失った。
犬も若者も見失った。
私は、もう無理だと歩道に倒れこんでしまう。

その時である。次郎長鮨と書かれた看板のあたりで視界をかすめたのは、可能性が1パーセントでもあるかぎりあきらめては駄目だと、さらなる猛ダッシュを見せて駅方面に犬を追う灘のイーサン・ハント(若者)の姿。
あきらめてはいけない。

最後の力をふりしぼってヨボヨボと駅までの道を行くと、ちょうど駅前のマンション内に犬を追い込んだ若者の様子が見えた。現地に辿り着くと、手を差し出そうとする彼に、エントランスの隅に追い込まれた犬は歯を剥いてすっかり興奮状態。私は走って近くのコンビニでペット用のおやつを買ってそれを彼に渡す。とりあえずこれで最悪の事態だけは避けられるだろう。若者も私と同様に、もう何があっても犬を逃すつもりはない。ここはあわてて無理矢理つかまえようとする事は避けて現場を彼に託し、私は今度はどこにいるかもわからない飼い主を探す旅に出る。たぶん、絶対に、すぐに戻ってくるからなんとかこの場所で耐えて……。

結局、王子動物園のあたりでリードを持ってふらふらしているひと目でそれとわかる女性がいて、飼い主はすぐに見つかった。聞くと自分の飼い犬ではなく友人から預かった犬なのだと言う。彼女は私に泣き出さんばかりに感謝するけれど、「いや、正味のハナシ僕はすぐにバテまして。追いかけて捕まえたのはもうひとりの兄さんですわ」とそこだけはしっかりと伝える。私たちは犬を彼女に引き合わせてあっさりと現場を離れた。「犬を追いかけてる時にカバンが邪魔だったから投げ捨てて。僕のカバンどこにあるんだろ……」とさっき彼が言っていたからだ。今度は若者のカバンを探せ。

犬を追った道をゆっくり逆に歩いて行く。さっき走った汗が今になってあとからあとから大量に出てくる。「そういえば弁当屋の近くだったような気がする」そう言う彼といっしょに原田通のキタミ屋まで戻ると、店員さんが「犬は大丈夫だった?」と店の奥からカバンを持ってきてくれた。道路に投げられていたカバンを拾ってくれていたのだ。
いつの間にか私も彼も汗だらけになっている。うちにも犬がおるからああいう状況はほっとかれへんよ、と私が話をする。名前も知らず、この先もう出会う事もないだろうけれど、たぶんこれからの人生で、なんとなくこの日の出来事を私たちは覚えているのだろうな、と思った。

別れ際、私は彼を指差して「兄さん、最高の走りやったねえ!」と(トム・クルーズを意識した笑顔を作り)手を振った。さて、帰るか。

坂道をくだり、駅まで戻ったところでふと気が変わって、来た道をもう一度引き返す。
そのまま帰るのが惜しいような気がして弁当屋さんまで戻り、一番高そうなデラックス弁当を注文する。
そして公園でひとり、ミッションの遂行を祝ったのだ。