『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』は2017年5月から2019年4月まで本ブログ管理者である平民金子が執筆し神戸市広報課サイトにて連載されたコンテンツです。現在神戸市広報課サイトに本コンテンツは掲載されておりませんので、このたび神戸市さんのご好意により本ブログへの転載許可を頂きました。記事の著作権は神戸市にありますが、書かれた内容についてはすべて執筆者にお問い合わせ下さい。本コンテンツに大幅に加筆をした『ごろごろ、神戸。』が株式会社ぴあより出版されています。そちらもよろしくお願いします。

第6回 反響

「イルカの頭にあるコブは、ある果物の名前で呼ばれています。それはスイカでしょうか? メロンでしょうか?」

「スイカだと思う人!!!」
(メロンもあり得ないが、スイカはさらにあり得ない気がする……)
「メロンだと思う人!!!」
そんな消極的な理由から、私はメロンの方に手を挙げた。

「正解は、メロンです!!! イルカは脂肪で出来た頭部のメロンから音波を飛ばし、その反響によって周辺を認知するエコーロケーションと呼ばれる能力を使って生活しています」

須磨海浜水族園で行われるイルカライブ(ショー)では、いつもオープニングのパフォーマンスの後に、観客に向けてイルカにまつわるクイズが出される。正解して何かがもらえるわけでもないのだが、ライブが終わるごとにイルカに関する豆知識が増えて行くという楽しい時間だ。

「イルカの妊娠期間は人間よりも長いでしょうか? 短いでしょうか?」
「赤ちゃんイルカに生えているのはマユゲでしょうか? ヒゲでしょうか?」
バンドウイルカの口の中に、歯は何本生えているでしょうか?」

降り続いた豪雨がようやく止んで、それと同時に梅雨が明けた先日は、イルカのエコーロケーションに関連する出題がされていた。イルカだけではなく闇夜を自在に飛ぶコウモリが使う事でも有名な、反響定位と呼ばれる能力である。

平尾剛『近くて遠いこの身体』では、舌を使って音を出し跳ね返る音を聞き取ってエコーロケーションをする盲目のダニエル・キッシュが紹介されている(以下、引用部分も含めて同書第4章「耳でものが見えるのか?」より)。エコーロケーションには、ダニエルのように自ら音を発して周辺環境を認識する「能動的エコーロケーション」と、周囲から入ってくる自然音によって環境を認識する「受動的エコーロケーション」の二種類があり、後者の場合は日常生活の中で誰もが無意識に行なっているものだ。

 いわれてみれば思い当たる場面がいくつか思い浮かぶ。
 たとえばラグビー選手はこの能力を存分に使ってプレーをしていると考えられる。
 先にも書いたように、自分をフォローしてくれる味方選手は常に背後にいる。彼らを視認すれば相手選手を視界から外すことになるし、パスコースも読まれてしまう。だから彼らがどこにいるのかは「耳で見る」。僕たち選手の実感としては「背中で感じる」が近いかもしれないが、同じことだ。背中で味方の気配を感じるためにじつは聴覚を研ぎすませていたのだと考えれば、なるほど合点がいく。

 

 道を歩いているときでもいい。ランチを終えたひとときでもかまわない。今、どんな音が聴こえているのだろうかと、耳を澄ませてみる。おそらく想像以上にたくさんの音が耳に飛び込んでくるはずだ。木々の枝がこすれ合う音、子供たちがはしゃぐ声、すずめの鳴き声に風の音……。意識するだけで僕たちは「いろんな音」を聴くことができる。

最近、「なんの音?」と質問するのが子供の口癖になっている。それは、日常生活の中で慣れない音がふいに紛れ込んできた時にきまって発する問いかけで、たとえばスーパーで買い物をしようとした女性が床に小銭を落とした時、地下道を歩いていて電車が通り走行音が地面に響いた時、飲食店の仕入れのためにビールケースを積んだ台車が横を通った時などで、「なんの音?」と聞かれればその場その場で音の説明をする。
自分は何十年も生きている間に聴き慣れない音にいちいち疑問を感じ立ち止まるような事もなくなって(そもそも日常生活の中で聴き慣れない音自体もほぼなくなって)、すべては日常音の集積として大雑把に脳で処理しているだけに、目で見るものや口にするもの、音で聴くものの多くが世界とのファーストコンタクトである幼児の、そんな反応を見ているのが非常に興味深い。

各地で甚大な被害が出る事になった豪雨の、始まりの日。7月5日木曜日の時点ではまだ、それほど雨脚は強くなかった。これから雨が強くなるから部屋にいようと言っても子供はまったく聞き入れず、仕方なく近所をぶらぶらと歩いた。私は子供を腕に抱いて、耳をすます。
傘に当たる雨粒の音。
すれ違う自転車のタイヤが、濡れたアスファルトを走る音。
前を歩く若者の草履が接地する音、バスのエンジン音。
車のタイヤが車道の水たまりを撥ねる音。
歩行者信号が青になり、陽気に鳴る音楽。
忙しそうに追い抜いて行く女性の、カバンのアクセサリーがこすれる音。

やがて人通りがなくなるほどに、私たちには頭上に響く雨粒の音しか聞こえなくなる。
「なんの音?」これは傘に当たる雨の音。
「ぜんぶ頭の上から聞こえるやろ?」そう口にしてから、今度は傘を外して地面に向け、体を雨に打たれるままの状態にする。「ほら、聞いてみて」
そうすると同じ雨音でも今までとは音の種類や立体感がまったく変わるのだ。私たちが立つ足元からは360度、アスファルトに当たる雨粒の音が一斉に響きだす。

二日目はさすがに、無理矢理一日中家に閉じこもっていた。外に出たがる幼児を家に留めるのは非常に難しい。子供にはポケモンのアニメを見せながら、私はスマホで天候や様々な場所の状況を調べていた。被害が時間とともに増して行く。たまに窓を開けると救急車の音が聞こえる。遠く離れた世界の出来事ではなく、ふだん気軽に遊びに行っている場所からの土砂崩れや浸水の情報が入ってくる。電車も止まったまま。同じ神戸市でもなんの被害もない場所と、家を出て避難所に行かざるをえない場所がある。そのような状況の落差と、部屋の中ではかわいいキャラクターたちのアニメが明るく響いていて、いま起こっているさまざまな出来事のバランスを脳内でとる事が難しい。SNSからは県外の被害状況も続々と入ってきていた。少しでも窓を開けると激しい雨の音と、救急車の音が聞こえてくる。

三日目はいくらか雨脚が弱まって、傘をさして子供を抱き稲荷市場まで歩く。閉まっていると思っていた駄菓子屋さんが人通りのない中でぽつんと開いていて、中をのぞくと店内には地域の災害情報を伝える放送がかかっていた。お菓子を見ているうちに雨が若干強くなってきたので軒先で雨をよけながら、子供は買ったばかりのアイスクリームを食べている。見おろした先に置かれた新聞ラックには、1995年に逮捕された宗教団体の代表者の名前が大きく見出しで並んでいた。十代最後の年に神戸の港から旅に出かけた上海の、街角に置かれた雑誌棚を見て私は日本で起こった出来事を知った。そして今、降り続く雨の中で、ふたたび見慣れた名前が目に入る。
雨がまた激しくなってきた。「これよかったら晩のおかずに」いったんは店を開けたものの、早めの店じまいをするお好み焼き屋さんからそばをもらう。気をつけて帰ってね。そちらこそ。ありがとう。またね。
私たちはどこか上気しているようで、何も知らない子供の指は、とけたアイスクリームで濡れている。

翌日、ようやく雨が上がり、日が暮れかけた頃ひときわ美しい夕焼けが見えた。ひさしぶりに犬を散歩させる。
さらに翌日には初めてセミの声を聞いた。新聞やインターネットでは県内、県外の被害の詳細が伝えられる。私には三日で終わった雨の出来事なのに今もなお、避難生活が続く場所が身近にある。日に日に状況があきらかになっていく中で、いささか唐突とも思える季節の移り変わり。その変化にとまどう。

休みなく続く生活の、慌ただしさの中で、自分は何が出来るのかと思う。インターネットやコンビニエンスストアでの、買い物ついでの募金に、歯がゆいような気持ちになる。現場に行かないといけない、そんな強迫観念にとらわれる。目の前の生活に追われ、足取りは重く、自分は何も役に立てていない、いやそんな事はないのだと自問自答し、そしてコンビニのポートを使って肉まんを買うごとに募金を繰り返す。

7月11日には新開地に常設寄席の喜楽館がオープンした。と言っても周辺のにぎわいをよそに、私たちが向かうのは喜楽館の真向かいにあるゲームイレブンと、喜楽館となりのダスッスで、お目当てはクレーンゲームの景品であるピカチュウの人形だ。数百円投入して目当てのポケモンをゲットして、そのまま海側まで歩く。「雨は大丈夫でしたか?」と兵庫区西出町の喫茶店『思いつき』をのぞいてみると、お店の床にまで水が入ってきてびっくりした、とのこと。いくら海に近いとはいえ平地のこの場所で浸水なんてあるのかと私も驚き、しばらく話をした。ほんの少しの時間だったんだけれど、脇の側溝から水があふれ出してきてねえ。となりの建物は大丈夫だったんだけれど、うちは少し地面が低いから。うん、ありがとう。また来てね。

海を背にした帰り道。誰もいないカンカン照りの道で、ベビーカーを押しながらふと思い立ち、舌を鳴らしてみる。 跳ね返って来た反響から世界の輪郭をつかみたい。チッチ、チッチ、チッチ。そんな風にしていると、眠たそうな子供がベビーカーの幌の向こうからこちらに問いかける。
「なんの音?」
炎天下、風にふかれた枯葉がアスファルトをこする小さな音が聞こえている。
わからんけれど、耳をすまして、聞かなあかん声や。
そんな説明をしながら、舌を鳴らす。輪郭をつかみたい。けれど反響が、何もわからない。
通りではセミが鳴き始めた。夏が始まったのだ。