『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』は2017年5月から2019年4月まで本ブログ管理者である平民金子が執筆し神戸市広報課サイトにて連載されたコンテンツです。現在神戸市広報課サイトに本コンテンツは掲載されておりませんので、このたび神戸市さんのご好意により本ブログへの転載許可を頂きました。記事の著作権は神戸市にありますが、書かれた内容についてはすべて執筆者にお問い合わせ下さい。本コンテンツに大幅に加筆をした『ごろごろ、神戸。』が株式会社ぴあより出版されています。そちらもよろしくお願いします。

第29回 すべり台

手足ばたつかせるだけだった赤ちゃんがいつの間にか寝返りを打ち、ハイハイし、やがて立ち上がって不器用に歩き出す。歩くことを覚えてからというもの、ずっと一日中あっちへこっちへと動いているものだから、ついて歩くこちらが先にバテてしまい「子供の体力はすごいな。四十男にはついていけねえわ」そんな事ばかり考えていた。でも、こちらも体力がついたのか単に慣れただけなのか、一日のやりくりに関してまあこれくらいならなんとかなりそうだ、なんて甘く考えていた矢先、先月くらいから子供の身体能力が急に一段階、上のレベルに移行したというか、今までのは準備体操だよとばかりにさらに激しく外を駆け回るようになった。偏食のかたまりでバナナとフライドポテトしか食ってないのにお前元気だなあ、というのは置いといて、ついて歩く私にしてみれば「このあたりが頂上だろうか」などと甘く考えていた場所はまだまだ山の一合目二合目であったというわけだ。

学校にでも行き始めれば少しずつ、自分たちの手からも離れていくわけで、どれだけ体力があろうが外でそれなりに発散してくれればよいけれど、今はそういうわけにもいかず、チカラが無限に湧き出る泉のような子供につきあって、四十をすぎた大人が朝から晩までヨボヨボとついて歩くのはいったい何の修行だろう。朝起きてテレビも見ずに外に出て、一歩ふみだしたところからもう小走りで、私はそれをずっとベビーカーで追いかけ、八百屋に行ってバナナを買って、それを手に持って定期的にエネルギー補給しながら22時を過ぎてもまだ駅の地下道を、ぬいぐるみ背負って朝とまったく同じ姿で駆け続けている。犬の散歩で数十メートル走っただけで息が上がる私とは人間のつくりが根本的に違うのだ。相手は朝日、こちらは夕日。私はただ先へ先へと歩く子供のうしろ姿を追いかけていた。

その日もいつものように朝から走り続けていて、もうすっかり夜になって最後に到着したのは海辺の小さな公園だった。そこには普通のすべり台よりも滑走面が幅広く作られたすべり台が置かれてある。子供は頂上まで行く階段を嫌がって「すべる」という行為だけをやりたがるので何回も上までかつぎ上げてはすべり降りる事を繰り返し、時には求められていっしょにすべり降りて、またかつぎ上げ、すべり、またかつぎ上げては、いっしょにすべる。そんな風に、同じことを無心に繰り返していると冬なのに体も汗ばんできて、頭が呆(ほう)けたようになる。そしてそうこうしているうちに、あるタイミングで子供が軽くふらつく時があって、それが一日の燃料が切れかかっているサインなのだ。私は自分に最後のムチを入れて本気になって子供を頂上へ、目一杯の大げさな動作でかつぎ上げる。かつぎ上げてはすべり、すべってはかつぎ上げ、またすべって今度は地面に転び、起き上がって滑走面を駆け上がる。あれだけ無尽の体力を誇った子供もだんだんと息切れをし始めて、私はこれが今日の最後だと思って「これで終わりな」と階段を抱いてのぼり、ゆっくりといっしょにすべり降りると、体が止まった先で2人そのまま寝っ転がっていて、視線の先には空気の澄んだ夜空があった。他に誰もいない公園。となりでは弱々しい息切れの音が聞こえ、子供の方を見ると、彼女は急に大人びたような表情でこちらを見ている。

その時つくづく、今のこの時は人生で一度きりの、一瞬しかない大切な時間なのだと感じた。子供を肩車出来るのは今だけ、すべり台をいっしょに降りられるのも今だけ、すべてが今だけの出来事なのだ。一年ほど前までは「いつになったらラクになるんや」「早くこの時間が過ぎ去ってくれ」なんて願う事も多かったけれど、最近は正直なところ、少しでもこの時間を引き伸ばしたいと感じる事が増えてきた。「あんぱんまん」という記事を書いた時からまだ半年しかたっていないのに、子供はずいぶん早足で成長した気がする。真横で息切れしている彼女の中に、今はまだ半分くらい残っているアンパンマンワールドの妖精が、ずっと私の目の前にいた妖精が、遠からず私の元から離れて行く。そんな予感があった。

すべり台で寝転びながら顔を見合わせていると、いつものように幼い表情でほほえみかけられ、私もそれにつられて笑ってしまうのだけれど、それは子供の中で暮らす妖精が「さようなら」と言っているようにも思えて、私は叶わない事だとわかっているのにこう願う。
「まだ、ここにいてくれよ」
そんな風に思う事が、日ごとに多くなった。