『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』は2017年5月から2019年4月まで本ブログ管理者である平民金子が執筆し神戸市広報課サイトにて連載されたコンテンツです。現在神戸市広報課サイトに本コンテンツは掲載されておりませんので、このたび神戸市さんのご好意により本ブログへの転載許可を頂きました。記事の著作権は神戸市にありますが、書かれた内容についてはすべて執筆者にお問い合わせ下さい。本コンテンツに大幅に加筆をした『ごろごろ、神戸。』が株式会社ぴあより出版されています。そちらもよろしくお願いします。

第5回 視線

ショッピングモールや駅や公園などの公共空間で、人目をはばかる事なく大きな声で子供を怒っているお母さんを見かける事がある。そんな時、子供がかわいそうだと非難する気持ちよりも先に、感情が決壊してしまった母親への同情が先に立ってしまい、彼女に対して、今がふんばりどころやからなんとかおだやかに、深呼吸してがんばろうや、などと心の中で声をかけずにはいられない。

理屈だけで言うならば、意のままにならない自分よりも小さな存在に対し声を荒げても仕方がない。しかしそんな事は当人が誰よりもわかっているはずで、ひとりの弱い人間でしかない私たちは時として、自分の感情すらコントロール出来なくなる事がある。育児はどっぷりつかればつかるほど闇と隣り合わせだ。余裕を失ったあのお母さんの追い詰められ方は、我が事のようにきついなと胸が痛む。

十代の頃、東京の山手線に乗っていた時、女装している男性が突然目の前に座っている女性の足を傘で小突き始めたのに驚いて、間に入り制止した事がある。すると彼は私に向かって吐き捨てるように、「こいつの視線の方が暴力なんだよ」と言ったのだ。とりあえず二人を引き離さないといけないと次の駅でいっしょに電車を降りて、私と女装者はなんだか間が抜けたような空気の中でホームに立っていた。

「暴力ってのはね、あいつの視線がそうなの」彼は何度も同じ言葉を繰り返して、だからといってやった事が正当化されるはずもないのだけれど、必死になって訴えていたその時の剣幕と、後味の悪さが今も印象に残っている。

子供を連れている時、なぜ私は野生動物のように、周囲を警戒してばかりいるのだろう。
何か言われないか、何か噛み付いて来そうな人はいないかとあたりの様子を探る。いつだって公共空間では「親がちゃんと子供を見ているか」をチェックされているような気がする。
例えば、こけても手を貸さず、自分から立ち上がるのを待っている時。フードコートで子供が食べている横でスマホを見た時。電車の中でうれしそうに走るのをとがめなかった時。座席に上ろうとした靴の裏がシートに少しでも触れた時。興奮して、大きな声をあげた時。

そんな時に見ず知らずの人から向けられる「ちゃんとしろよ」とでも言いたげな、親としての出来を鑑定されているような視線を感じた事のある人は少なくないだろう。

子供にまつわるひどい事件が起こってしまって、それによってテレビやインターネットで世間の怒りが一定数以上に盛り上がった時に、私は世の中の圧倒的に正しい怒りの感情がこわくなってしまう事がある。その怒りのエネルギーは当然のものだと頭で理解していても、ニュースをにぎわすひどい親に向けられる、世間の圧倒的に正しい怒りに、共鳴しながらもなぜかひるんでしまうのだ。

先日、暑いさなかに子供を抱いて歩いている時に、わざわざこちらに日傘を差し出してきて「私は子供が大好きだから、こういうかわいそうなこと(=暑い日差しの中で外に出す)はやめてあげて」と言ってくる人がいて、その場は適当に笑ってやり過ごすのだが、おそらく「子供好き」の彼女は、フードコートで走り回る子供や、言う事を聞かない子供に対して大きな声で叱っている母親に対しても、厳しい目でジャッジしているのだろう。

子供への心配や、語られる正義、向けられる視線が、有るか無きかの親の自尊心を傷付ける刃にもなってしまう事があり、自分が不必要なまでに身がまえてしまうのは、普段から周囲の目に対するおびえがあるからかもしれない。

私たちはひどい現実を前にすると、それが子供に関するものならなおさら、社会を一気に良くするような特効薬を探してしまいがちになるけれど、現実的には局面を一発で打開するような「かいしんのいちげき」はなかなか存在しない。悲しい事件が起こった時の当事者ではない私たちが、子供が暮らす社会を良くするために確実に出来るのは、つみかさねる日々の地味ないとなみだけで、たとえば、「視線」の向かう先を変えてみるのはどうだろう。

電車の中で、車椅子やベビーカーを置くスペースを腰掛け代わりにふさがれて、車椅子やベビーカーのユーザーが困っていないか。妊娠中や赤ちゃん連れにもかかわらず優先席付近で立ったまま放置されている人がいないかどうか。そんなところに視線を向けてみる。視線は、親子連れを「ちゃんと出来ているか」と高みからジャッジするよりも、置いてけぼりにされている人や困っている人たちを見つけて小さな善意を発揮するために使ったほうが幸せになれる気がする。

それは直接的には、現実社会に対する「かいしんのいちげき」にはならないけれど、目の前に所在無げに立つ妊婦や親子連れ、杖を持った老人への「よかったらどうぞ」は巡り巡って、必ずどこかの誰かの微笑みにつながっていくはずだ。

道ですれ違った時に手をふってくれたこと、落ちたサンダルを拾って手渡してくれたこと、電車で席や場所をゆずってもらったこと、階段でベビーカーを持ちましょうかと声をかけてもらったこと、エレベーターをゆずってもらったこと。そんな、さりげない視線から生まれる小さな善意に私は支えられてきたし、私もまたこれから先、そのような視線を手放さない事によって、どこかの誰かを支えていく。

関係ないけれど、山陽電車の運転手さんは子供が手をふった時にふりかえしてくれる率が高い気がする。なんとなく他路線とは違ったのどかな雰囲気がそうさせるのかもしれない。電車の運転手に向かって子供が手を振って、たまに手を振り返してもらった時に、手を合わせたくなるほどにありがたい気持ちになるのが不思議だ。

東京に住んでいた頃、毎朝都電荒川線に乗って仕事に出かけていた。途中、かならず同じ踏切に赤ちゃんを抱いたお母さんが立っていて、あの頃の私は母子に対して何か特別な感情を抱くこともなかった。そういえば自分も、幼い頃に母親や祖母に連れられて電車を見ていた遠い記憶がある。そんな事を思いながらある日のこと、私は山陽電鉄須磨浦公園駅に降り立って、ゆっくりと発車する電車の中からこちらを見ている見ず知らずの赤ちゃんに気付き、大げさに手をふっている。

がんばれよ、未来は明るいぜ、そんな風に思いながら。