『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』は2017年5月から2019年4月まで本ブログ管理者である平民金子が執筆し神戸市広報課サイトにて連載されたコンテンツです。現在神戸市広報課サイトに本コンテンツは掲載されておりませんので、このたび神戸市さんのご好意により本ブログへの転載許可を頂きました。記事の著作権は神戸市にありますが、書かれた内容についてはすべて執筆者にお問い合わせ下さい。本コンテンツに大幅に加筆をした『ごろごろ、神戸。』が株式会社ぴあより出版されています。そちらもよろしくお願いします。

第33回 商店街の神様

神戸で過ごす3回目の大晦日は、去年おととしと同じように、一年の終わりにお祭りのようなにぎわいを見せる商店街をぶらぶらと歩く事から始まった。この日は食材をあつかうあらゆる商店は家族総出で店頭に出て声を張り上げ、その中を普段からの買い物客だけでなく帰省してきた家族連れの人たちも入り混じり、すれ違うのも苦労する大混雑となる。

年末年始をやりくりするだけの食材はすでに買ってあるのだし、なにもわざわざ今日は出かけなくてもよいのだが、この雰囲気が良いのだと熱気の渦に分け入って、必要もないのにあれやこれやと買い歩き、いつの間にかリュックは一杯に、両手には長ネギやら金時人参やらが顔を出す買い物袋がぶら下がる。

商店街を一歩外に出ると住宅街は人通りもなく静まり返っていてその落差と、静けさの中であらためて吸気に意識されるここちよい冷気で、あらためて今日が一年最後の日だと思う。

家に帰ると暖房をつけっぱなしにしていた部屋はあたたかく、そこからは年末年始など関係のない日常の時間が流れて、子供は紅白歌合戦ではなくNetflixをつけろとせがむ。最近大好きになったアニメ『ムークのせかいりょこう』を見るためだ。主人公である子熊のムークと猫のシャシャは自転車に乗って世界中を旅行し、さまざまな動物たちと出会う。サハラ砂漠、タージ・マハル、マダガスカル、東京、アラスカ、北極、ブラジル。一日の最後にはノートパソコンを開き、インターネットで親友のポポとミタ(子犬)に旅の様子を報告する。旅を報告する側と、報告される側。

二十年以上前に海外に旅行して帰国し、家には帰らずに祖母のいるマンションでしばらく過ごした。「香港てどんなんやった? インドは行ってないの? あんたの旅行の話、もっとしてえなあ」と繰り返し話しかけてくる祖母を、私は「また今度な」「はい、また今度」と適当な相槌でやり過ごした。それは十代特有のひねくれた態度で祖母に甘えていただけなのだけれど、数ヶ月後に彼女は亡くなったので、あの時もっと自分が見てきた世界の話をしておけばよかったと思う事がある。ムークとシャシャは毎日、パソコンをつないで親友に旅の話をしていて、その律儀さがとても良い。

やがて日付が変わる前に子供は寝て、そこからはテレビをつける事もできないので冷蔵庫から缶チューハイを取り出し、年末に買っておいたコルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』(谷崎由依訳)を読みながら年を越していた。

元旦は、混雑する神社や寺を避けて近所の商店街に初詣に行く。大晦日の喧騒から一夜明けると、湊川商店街、ミナイチ、ハートフルみなとがわ、東山商店街、マルシン市場、普段よく行く商店街や市場のほぼ全ての店が正月休みでシャッターを降ろしていて、前日からのあまりの違いようがおもしろい。それはこの時期にしか見られない貴重な静まりだ。

以前シャッターの降りた商店街を海底深くに眠る沈没船に例えた事があった。『ドラえもんのび太の海底鬼岩城』ではドラえもんたちが地球の危機を救うために結界の張られたバミューダトライアングルに命がけで潜入する場面がある。ようやく中に入れたその場所は地球の危機というにはおだやかで、周りを見渡せば船や飛行機が沈んでいる深海の静寂が広がっていた。のび太たちは何千年も前に栄え、今は海の底に眠る古代都市を歩く。元旦の東山商店街に立ち、子供の頃に漫画で読んだ、そんな海底を思う。

普段は買い物客でごった返す通りに誰もいないので、所々で立ち止まって、閉じられたシャッターの汚れや看板の文字のかすれ、何十年も使われて年季の入った機材、これまでどれだけの数の足に踏まれてきたのだろうという階段、そういった町の細部をこの日は静寂の中でゆっくりと眺める事が出来る。誰もいない通りの真ん中に立つと、ふと商店街の神様が、静かに羽を休めているように思えた。