『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』は2017年5月から2019年4月まで本ブログ管理者である平民金子が執筆し神戸市広報課サイトにて連載されたコンテンツです。現在神戸市広報課サイトに本コンテンツは掲載されておりませんので、このたび神戸市さんのご好意により本ブログへの転載許可を頂きました。記事の著作権は神戸市にありますが、書かれた内容についてはすべて執筆者にお問い合わせ下さい。本コンテンツに大幅に加筆をした『ごろごろ、神戸。』が株式会社ぴあより出版されています。そちらもよろしくお願いします。

第20回 コロッケのおいしさについて

二十代で自炊生活を始めた時、おい、これどないなっとんねんと驚いたのは、自分で作った筑前煮がめちゃくちゃにおいしかったことだ。ダシはスーパーで買った粒状のもの。調味料も醤油、砂糖、酒、みりんくらいで、特別な材料は何も使っていない。当時はパソコンもなかったから図書館で料理の本を借りてその通りに作っただけだと思う。しかしそうして出来たごく普通の筑前煮は、これまで家庭や学校給食で食べたものとは別次元の味だった。なんだこの深みは。なんだこの重厚感は。などと考えてみたところで、コイツがおいしく感じられる理由はひとつしかない。自分で作ったからである。

いままでは他人が作ってくれたものを食べることしか知らなかった。けれど一人で八百屋に行って食材を買い、部屋に帰ってそれを切り(野菜にはそれぞれの切り方があることを学び)、炒め、味をつけ器に入れ、その後の洗い物も含めて料理の全工程を自分の責任でおこなうことで、食べる時に箸でつまんでいるこのニンジンがどのような道筋でいまこの瞬間舌の上にのっかっているのかという物語が明瞭に見える。そうしたらこれまで別に好きでも嫌いでもなく、地味な惣菜あつかいしていた筑前煮がどんな食べ物よりもおいしく感じたのだ。

それは自炊世界における味覚の扉が開いた瞬間だった。「味」は単に舌だけで判定すればよい単純なものではなくなって、各素材や調味料や部屋や俺や町や東京が奏でる壮大な交響曲となったのである。

それから私は家庭料理の奥深さにハマり、頭髪を剃り片眉を落とし台所を中心とした家事全般の求道者となった。そしてすぐに気づくのだ。自分が作った世界一の筑前煮もそれを食べさせる第三者にとっては、ただの筑前煮にすぎない。

生きているかぎり休みなく日々が続く家庭料理のシビアな世界で、私が筑前煮に感じたおいしさの境地に達することが出来るのは、あくまでも作り手だけの特権である、と。

たとえば、作る人間というのは出汁の効かせ具合や微妙な塩加減も逐一見ているので台所の鍋の前に立っていると薄味の美しいグラデーションがとても詳細に理解できる。しかしそれをそのまま食卓に出しても食べる人にとっては単に「うっすいなあ!醤油かけていい?」としか感じられない事がある。

先日、手間ひまかけてコロッケを手作りしたが、配偶者が何も言わずにいきなりソースを大量にぶっかけて、ちゃんと味わう様子もなくあっさりと雑に食べてしまい、それを見てもう作ってあげる気をなくした、というようなSNSのつぶやきを見かけて、この作り手のいらだちはなんとなくわかる気がするんだけれど、でも先ほど書いた「作り手だけの特権」という話を当てはめると、味のグラデーションへの理解を食べる側に求めすぎてしまうのは、若干酷であるような気もした。作る側と食べる側とでは、ひと皿の料理を前にして受け取る情報量が圧倒的に違っているのだから。

コロッケって作るのに手間がかかるわりには気軽な大衆食としか理解されていないので、作り手と食べ手との熱量の違いからくる不幸な摩擦がもっとも起こりやすい料理だと思う。もうコロッケは二度と手作りしねえ!なんて話を私は過去に何度か聞いたことがあるんだ。料理の知識や経験のない人は往々にして、目の前の配偶者が時間をかけて作ったコロッケもスーパーやコンビニのコロッケも同じ地平に並べて見てしまう。
なんだ、今日はコロッケか、ふーん。

近年、なんとなくいいなと印象に残ったコロッケ描写は漫画『きのう何たべた?』10巻で主人公の二人がアパートでコロッケパンを食べる所だ。一人が材料をこねて、もう一人が揚げてと調理を共同で行ない、出来たらいっしょに食卓を囲んで食パンにキャベツとアツアツのコロッケをのせる。そして、そんな風に手間をかけたコロッケを二人して「これだよな~~これこれ!」なんて言いながらソースをドバっとかけて豪快に食べる。

これは見ていて気がラクになるようなコロッケ描写であった。いっしょに料理をして、いっしょの世界を見て、そして食卓につく。最後にはせっかく作った積み木を勢いよく崩すように気持ちよくソースをぶっかけて、お互いが笑顔でそれにむさぼりつく。この回は家庭でコロッケを作り、食べる理想形であるような気がした。

ちなみに神戸は、揚げ物の国である。
あちらこちらの町に、商店街や市場に個人営業の肉屋や惣菜屋があり、店先で揚げたての物を売っている。言えばすぐに揚げてくれる。まるで「コロッケは俺にまかせとけ。もう家で作るな。無理せんでええ」とでも言われているような勢いだ。こちらに来て以来私にとってコロッケは、手作りを家で食べるものではなく、肉屋の店先で揚げたてを買ってホクホクと路上で楽しむ最強贅沢な食べ物となった。

というわけでコロッケを作るが大変でしんどい人は神戸に引っ越してしまえばよいのではないか。
いらいらしている人は出来たてのおいしいコロッケを公園で食べて、ついでにビールを飲んで、酔っ払っていろいろと忘れよう。日に日にあたたかくなって梅の花も咲き始めた公園の日差しの中で、アッツアツのコロッケと缶ビール。
かのフェデリコ・フェリーニも映画の中でこう言っている「人生は祭りだ。ともに太ろう」。