『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』は2017年5月から2019年4月まで本ブログ管理者である平民金子が執筆し神戸市広報課サイトにて連載されたコンテンツです。現在神戸市広報課サイトに本コンテンツは掲載されておりませんので、このたび神戸市さんのご好意により本ブログへの転載許可を頂きました。記事の著作権は神戸市にありますが、書かれた内容についてはすべて執筆者にお問い合わせ下さい。本コンテンツに大幅に加筆をした『ごろごろ、神戸。』が株式会社ぴあより出版されています。そちらもよろしくお願いします。

第43回 はるかなる粟生線

数年前、インドのダージリン・ヒマラヤ鉄道を紹介するドキュメンタリー映像を見た。標高2千メートルを超える山を小回りが利くように小型化された機関車が、時には山肌を縫うように、時には雑踏をかきわけ、時には故障して立ち往生しながらも10時間近くかけて終点のダージリン駅までえっちらおっちらと登っていく。急坂やカーブで車輪がしっかりと線路を噛んで脱線しないよう、先頭車両の両端につかまったサンドマンと呼ばれる男たちが線路に砂を撒き続けている。1881年、イギリス植民地時代に開通した世界最古の山岳列車の姿に惹かれて、いつか自分もタイミングさえ合えばあの列車に乗ってみたいと思うようになった。もちろん今の生活が続くかぎりその「いつか」は当面やってきそうもない。したがって夢を抱きながら同時に、あきらめてもいたのだ。ある日妻から「子を連れて親族の結婚式に出席するために一週間ほど家をあける事になる」そんな風に告げられるまでは。

インドへ。それは18歳の時に伯父から「大学にも行かへん。就職もせえへん。一生懸命何かをやってるわけでもない。そんなんでええんか? この本読んで熱く生きろや」みたいな事を言われて手渡され、そこまで真剣な眼差しで言われた以上はこちらとしても断固読んでたまるかよという生真面目な反発心を起こし、結局今もなお文庫裏表紙のあらすじだけで内容を想像し続けている『深夜特急』の世界である。左手で子供の頭をなで「さみしいな、さみしいな」などと言いながら、右手では引き出しを開けてパスポートを探し、スマホで現地までの経路を調べている。三宮から関空行きのバスは30日間有効の往復きっぷが3080円。関空からコルカタまでは直通便が出ていてそこからは深夜バス……。夢を叶えるなら今しかない。そう思いながら私は、出て行く妻子を見送った。そして次の日。

朝、眼を覚ました時、これはもうぐずぐずしてはいられない、と思ってしまったのだ。私はコルカタ空港に降り立ったような気分でJR神戸駅に降り立ち、バザールを探索するようにメトロ神戸の地下街を歩き、ようやく着いたぞ、ここがダージリン・ヒマラヤ鉄道の始発駅ニュージャルパイグリだと己に暗示をかけながら神戸電鉄の始発駅に立っていた。

インドちゃうやん。新開地やん。
私の中の沢木耕太郎がそのように苦言を呈している。それはともかく何よりまずは腹ごしらえだと「高速そば」の券売機から肉そばのボタンを押す。たっぷり豚肉が盛られて420円。「あ、これ好きなやつ」と思わずつぶやいた私はその頃には深夜特急の事は忘れている。汁まで完飲し店を出て、名物である建物床の傾斜を見ていると「これから山岳鉄道に乗るのだぞ」という気分が自然と盛り上がる。ダージリン・ヒマラヤ鉄道ほどではないが、こちらも標高300メートルまで登る立派な山岳列車である。神戸電鉄粟生(あお)線。私は普通列車粟生行きと表示された列車に乗り込んだ。

目的を持たずに電車に乗る事ほど贅沢な時間の過ごし方はない。かつて鹿児島から北海道、日本海から太平洋まで日本全国を鈍行列車で回っていた時の、一日の大半をシートに身を預けて流れていく景色をぼんやりと眺めていた、そんな怠惰な旅情を思い出す。妻子が家を出る際に、私の容量の多いスマホは工場出荷状態にリセットした上で、アニメ動画がたっぷり入った子守り専用機として渡してしまったため、今日はスマホも持っていない。誰ともつながっておらず、現状をSNSで「なう」などと報告する事もない、そんな二十数年前の当たり前の感覚がなつかしく新鮮だ。

目的がないとは言えひとつだけ訪ねてみたい場所があった。三木上の丸駅そばのナメラ商店街だ。木造駅舎を降りるとすぐ目の前にアーチが見えるので想像以上に近い。商店街を訪ねて歩く時にはなるべくそこにある店舗で買い物をするようにしている。たった数百円を使って何かした気になるのは自己満足に過ぎないのだけれど、そうしておかないとなんだか居心地が悪いのだ。しかしトタン作りのアーチに昼の光が差し込んだ商店街は予想していた以上にシャッターが降りていた。ほんの数十年ほど前には確かにこの場所にあった、にぎわいを想像する。よく行く稲荷市場にしてもそうだけれど、シャッターの降りた神戸の商店街を見るたびに私はこの町の全盛期を知らない、だからこそ知りたいと強く思う。本屋や図書館や映像で様々な資料をあたるうち、頭の中にはたくさんのモノクロームの過ぎ去った町のにぎわいが蓄積されてきて、こうやって閑散とした商店街に立った時にふと目の前の風景に過去のにぎわいが入り交じるような感覚になる事がある。それは私の前にだけ現れる、現在と過去が入り混じった重層的な町。手をのばせば消えてしまう蜃気楼のようなにぎわいだ。

一度降りたら一時間は次の電車が来ないため、そのまま駅を離れてぶらぶらと歩く。このあたりは古くて大きな木造家屋が多く残されている。昭和の時代の色あせた看板が珍しく、シャッターの降りた店の写真を撮っていると道路の向こうにウロコに覆われたような白壁のビルがあり、近付くと1階が西洋料理ノブと書かれていた。中に入って880円のランチをたのむと最初にスープが出てきて食後にはコーヒーも出してくれて、パッと入ってチャッと食べるような店しか知らない私には食堂でのこのような時間の過ごし方は新鮮である。食前にスープが出てくる店に入るのは牛めし松屋を除けば25年ぶりくらいだ。満足して店を出、周辺をさらに散策していると家の前の道路を掃除をしている女性と目が合い、そういや自分はスマホを持っていないのだと「すいません、ここから次の駅までは歩いて遠いですか?」と道をたずねる。女性は笑いながらすぐ近くですよ、と教えてくれた。

「ほらそこの角を曲がって橋を渡ったらすぐに、駅。」

私はそのまま指さされた道を歩きながら、いま渡っているこの川の名前はなんだろう、スマホがあれば間違いなく地図アプリを開いて位置と名前を確かめたはずなのにな、と思う。でも今日は「なんなんだろう」と思ったまま、橋を渡って川ベりに降りると、歩いて来たばかりの橋桁に天使の羽が落書きされているのが見えた。名前のない川で天使が羽を広げている。

駅舎が燃えてしまったその日、粟生線は、そしてこの場所はこれからどうなってしまうのだろうと考えたが、線路とホームは無事だったので次の日から発着は再開された。電車を待ちながら、火事の跡を見る事は痛ましく、なんとなく目をそらすように下を向いていると、コンクリートが途切れたその先のむきだしの地面に小さなヒメオドリコソウの花が咲いている。やがてホームに列車がやって来て、私はまたつかの間粟生線の住人となる。車窓から流れて行く景色が残像になって、やがていつまでも伸びて行く一本の線になる。その線の中に浮かぶひとつひとつの点に近付けば、その場所にはこぼれんばかりの歴史や生活がある。車内に響くとりどりの学生たちの笑い声。三木駅はこれから駅舎の復活を目指すという。