『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』は2017年5月から2019年4月まで本ブログ管理者である平民金子が執筆し神戸市広報課サイトにて連載されたコンテンツです。現在神戸市広報課サイトに本コンテンツは掲載されておりませんので、このたび神戸市さんのご好意により本ブログへの転載許可を頂きました。記事の著作権は神戸市にありますが、書かれた内容についてはすべて執筆者にお問い合わせ下さい。本コンテンツに大幅に加筆をした『ごろごろ、神戸。』が株式会社ぴあより出版されています。そちらもよろしくお願いします。

第11回 なつかしさと、都合良さと

どういった会話の流れだったのか、酒場で「いま旅行するならどこがよい?」というような話題になって、私は「キューバだと思う」と即答した。親米政権から一転、1959年の革命からアメリカと国交断絶する流れがあって、アメリカ文化の受容という意味では半世紀以上、時間が止まっている部分がある。建物はコロニアル建築の昔のものがそのまま残っていて、1950年代の米国車が今も現役で街を走っている。年齢を重ねた人間の顔に皺(しわ)が刻まれるように、道路や建物や乗り物にも皺があって、首都ハバナに漂う「街の皺」は特別なものだと思った。
……なんていう話を酔いも手伝って、滔々(とうとう)としゃべり続けた。

古くからある街なみが好きだ。高倉健が主演する『ならず者』(1964)には半世紀以上前の香港がこれでもかと写されていて、ストーリーとは全く関係のない外の風景ばかり見てしまう。主人公が最初の任務を遂行し、車で走り去る時に車窓から見える、ビルの窓という窓から無数に突き出して風にはためく洗濯物。ビクトリア・ピークから眺める香港島は今よりも高層ビルが少なくて、登場人物が謀略を練るバスの車窓からは小舟を浮かべて水上生活する当時の人々の様子が映る。主人公が、自分を罠にはめた裏切り者を探すために歩くのは香港島の山沿いに身を寄せ合うように小屋が立ち並ぶ集落だ。その集落は、写真家の長野重一が1958年に撮影し、後に写真集『香港追憶』に収められたものと、おそらくまったく同じ場所だと思われる。
巻末には「香港島の岩山に建てられた難民のバラック」と説明が書かれていた。

長野重一の写真集は、私が昔日の香港に対して抱いてしまう、猥雑さに対するあこがれのような気持ちを突き放す。そこには(私が一方的に感じるような)情緒ではなく、事実だけが写されているように見えた。雷文(ラーメン鉢のふちに描かれるような、うずまき模様)が描かれた瀟洒な客船から、西洋の観光客たちが顔を出し、船の下にはザルを持った手を伸ばし物をねだる現地の子供たち。路上に新聞紙を敷いて眠る母子。夜の活気のすき間で、疲れて座り込む労務者。写真家は短くこのように記している。

この街はイギリスの植民地として、一握りの英国人が支配していた。彼らが九竜半島に立てた難民のための集合住宅からも人が溢れ、高い岩山の上にまでバラックを立てて暮らしていた。東西冷戦の間にある植民地で、私は国家権力と言う物の持つ恐ろしさを初めてまざまざと体験させられた。

キューバの良さを饒舌に語り、満足して酒場を出た帰り道、私はハバナの街角で出会った人たちの事を思い出していた。
煙草を吸っていると「アミーゴ、スペイン語を教えるからビールをおごってくれよ」と話しかけられて、彼と入った食堂で、最初は熱心に紙とペンを持って言葉を教えてくれるのだが、やがて「きみたち観光客はたくさん金を持っているのに私はいくら働いても金が貯まらない。困ったことだよ」なんて言われて、スペイン語は満足に出来ないし、返答に詰まった事を思い出した。私は朝になると路地から路地へと歩き、時には知らない人の家に招待され、現地の市場をのぞいて、夜になると観光客用のホテルに帰って行く。そしてハバナはあちこちに古い建物が残ってて最高やわ、なんて感想をもらしている。

アメリカの大統領がオバマから変わって今はどうなるかわからんけど、国交がしっかりしたら当然資本が入って来て街の形が大きく変わる。だからキューバのあの古き良きみたいな感じもいつまで続くかはわからないですよ」などと酒に酔って言う私と、話は全然違うけれど、モトコーにせよ三宮にせよ、これから本格的に再開発になってどこにでもあるような街になってしまうんやろうなあ、神戸らしさもどんどんなくなっていくんかな、などと言う私には、どこか奥底に共通するものがあるように思えて仕方がない。それは、自分の都合の良いイメージの枠の中に、街や国、そこで暮らす人たちを押し込めて良いだの悪いだのと身勝手にジャッジをする癖というか。

古いものがそのまま残っている事に対するセンチメンタルな感情。
いつまでもそのままで、変わらずにいてほしい。そんな気持ちを他者に託してしまう心のありよう。
それは対象に対する、あまりにも都合の良いまなざしとも言えるのではないだろうか。

神戸の良さを語りたい時に、「このままだとどこにでもあるような店、どこにでもあるような街になってしまうやん」というような事を私は迂闊に言ってしまうけれど、例えば、約70年前の終戦直後。戦災で何もかもが焼けて、たまたま空襲をまぬがれた航空機用のジュラルミン材を使って店舗が復興された頃の、他のどこにもないオリジナルな元町商店街よりも、どこにでもあるような店が増えてきたなあなんてぼやきながら歩いている現代の商店街のほうがよほど平和で、誰にでも買い物が出来て、便利なのは間違いない。昔の写真集や映像に出てくる、街にあふれて遊ぶ子供たちを見ていると、当時の路上の熱や活気に甘い感傷を抱きそうになるけれど、よくよく考えれば、安全な保育施設が整い多くの子供たちが路上から去った今のほうがよほど暮らしやすい時代だろう。

私たちは、どこにでもあるような街を作ることで、間違いなく生活の平均値を底上げしてきた。
昔のほうがおもしろかったと遠い目で語ったり、「神戸らしさ」という言葉をたくみに使って、私は自分に都合良く街のイメージを固定化していないだろうか。それを常に問い続けること。
そのような自戒と内省を忘れてしまうと、私の語る街の魅力は、ただの懐古趣味の、うわすべりした中身のないものになってしまう。どのみち、神戸であれどこであれ、年月と共に深く皺を刻み、風雪に耐えなお屹立する街の魅力に、私は抗えないのだから。