『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』は2017年5月から2019年4月まで本ブログ管理者である平民金子が執筆し神戸市広報課サイトにて連載されたコンテンツです。現在神戸市広報課サイトに本コンテンツは掲載されておりませんので、このたび神戸市さんのご好意により本ブログへの転載許可を頂きました。記事の著作権は神戸市にありますが、書かれた内容についてはすべて執筆者にお問い合わせ下さい。本コンテンツに大幅に加筆をした『ごろごろ、神戸。』が株式会社ぴあより出版されています。そちらもよろしくお願いします。

第4回 日々

散歩道の地面に、見慣れない迷彩柄の蛾がとまっている。一人なら気にする事もなく通り過ぎるが、子供が横にいたので立ち止まり、「大きいチョウチョがおるでえ」と一緒にしゃがみこんだ。子供は初めて出会う昆虫を前にとまどったような態度を見せ、何を思ったのか手に持っていた人形を前に並べ出し、対戦(?)の準備でも始めているようだ。

何をしたところで蛾はめったな事では動かない。やがてこちらの手をとって「(蛾を)つんつんして」と要求され、お前がやれよと思いながら仕方なく指を出してみたものの、びびってすぐに引っ込めてしまい、思えば自分にもカマキリやバッタやコオロギ、トカゲやカエルといった小さな生き物たちを見て、頭で考えるよりも先に手をだして触っていた子供時代があったと考えた。だんだんとそんな接触もなくなり、大人になった今では小さな虫をさわる事にすら抵抗を感じるようになってしまって、そんな我が身の不甲斐なさを反省しつつ帰宅後に、インターネットで蛾の名前を調べる。

6月某日。山の上に行けばまた新しい昆虫にでも出会えるかと思ってJR灘駅から坂バスに乗り、「摩耶ケーブル下」で降りる。するとうっかりした事に、ケーブルカーが運休日(火曜日)でシャッターがおりていた。とは言えせっかくここまで来たのだし、子供はどの程度まで自分の足で登れるのだろうと思い登山道に入ってみると、こちらの心配をよそにずんずん、ずんずんと小さな体で駆けて行く。

これは頼もしいじゃないかと近くの五鬼城展望公園を目標にしたが、結局勢いは最初だけで階段を十数段、上がったところで早々に「だっこ」と言われ、私が2人ぶん登った。肉体労働を長くやっていたため荷物を持って階段を上がるのは得意なはずだったが、今の自分にはもうその頃の体力は残っていない事を痛感。摩耶山はこのあたりでも充分に絶景だと思う。アクセスが便利なので幼児連れでも簡単に来れてしまうのだ。

子供にとっては外界で接する多くのものが初めて見る存在だから、ウンモンスズメ(蛾)にしてもそうなのだが、そんな「はじめまして」の瞬間に立ち会えるのはおもしろい。
この日はヘビイチゴに興味津々であった。

6月某日。いつものように「今日は何がしたい?」という会話から一日が始まって「砂でお城を作りたい」と言われたので道具を持って須磨海岸まで出かけてみると、浜に大量の海藻が漂着している。あまりに大漁すぎて波までが緑に染まっている。このような状態の海を初めて見たが、季節の風物詩か何かだろうか。駅前ではちょうど海の家を建てる工事が始まったところで、もう一ヶ月もすればここには大量の若者たちがあふれかえっている。今日はまだそのような季節でもないので曇り空、ときおりパラつく雨の中、海藻があふれかえっている。

某日。トイザらスに行くと恐竜のリュックが1600円で売っていて、子供はそれを激しく欲しがっている。
おまえどうせすぐに飽きるやろが……と心の中で思うのだが、しかし私がいつも酒場で平均的な飲み方(チューハイ2杯、串5本、小鉢一品)をすれば一回につき同じくらいの値段である。酒場で過ごすのはほんの一時間ほどだが、子供にリュックを与えればいくら飽き性であっても短くて三日くらい、気が向けば一週間ほどは楽しく遊ぶはずで、その後にたとえ飽きたとしても充分に元がとれているのではないか。少なくとも私が一回酒を飲みに行くのを我慢すれば良いだけの話ではないか。
そんな事を考えて、つい買ってしまう。

某日。何を好きになってもよいのだが、何かを好きになった時のサインは出来るだけ見逃さずに、手助けをしてやりたい。けれどそうやってちょっかいを出すのはむしろ、押しつけがましい事かもしれない、どうなんだろう。などと煩悶しながらも、もしかするとうちの子供は昆虫が好きなのかもしれないぞと考えて、伊丹市にある昆虫館を訪ねた。各線伊丹駅からバスで松ヶ丘まで行くと巨大な昆陽池公園の目の前に着くので、そこから公園の中を10分ほど歩く。入口に売店があって虫カゴやアミが売られているので退屈はしない。初めて持つアミを振り回し、蝶を追ってハイテンションであるが、当然蝶の方が一枚も二枚もうわ手、かすりもしない。

こちらの2階学習室にはダンゴムシが大量に飼育されているケースがあって、自由にさわらせてもらえるのだ(ちなみに、ダンゴムシは分類上は昆虫ではない)。そういえば先日王子動物園に行った際、パンダ舎の前で幼稚園児の集団がいて、引率の先生はパンダを見せようとしているのに1人の子供が地面にダンゴムシを見つけて叫び出したものだから、皆が主役のパンダそっちのけでしゃがみこみダンゴムシを観察し始める光景を見た。なぜ小さい子供はかくもダンゴムシに興奮してしまうのか。とにかく伊丹市昆虫館のダンゴムシケース、私たちが行った時点では1896匹(!)が中にいて、これは大人の感動に換算すると1896万円の値打ちがあると言ってよい。まさに宝箱である。

三十代の半ばくらいから、私は自分自身について考える事をヤメにしたかったので、いま1日の大半を子供や犬のことを考えて世話に追われる日々は、案外性に合っているのかもしれない。そんな事を時々考える。

疲れた体とぼんやりした頭でショッピングモールを歩いていると、もう夜だというのに、闇などどこにもないのだというふうな眩しい蛍光灯に全身を照らされ、そんな時にふと東京の西荻窪に住んでいた頃、月に一度だけ、土曜日の夜中に家からすぐ近所の「アケタの店」というライブハウスに遊びにいって渋谷毅氏のピアノを真近で聴いていた、あの贅沢な暗闇を思いだした。

某日。ガタゴトと、乗り心地の悪さで有名な須磨浦山上遊園のカーレーターが子供は大好きなので、この乗り場を目標に須磨浦公園駅山陽電車)をおりて鉢伏山へ。摩耶山同様、早々に自分の足で登る事は拒否したので抱いて、背負って登る。子供が生まれる前はスポーツジム通いの楽しさに目覚めてしまい数年間ジムとサウナを心の友として過ごしてきたが、今はジム通いのためのまとまった時間がとれず、だから坂道を歩くのはちょうどいい運動だ。摩耶山鉢伏山を行き来するように通ってみると海のせまり方が両者でまったく違う。摩耶山の場合は海と山がハンバーガーのバンズのようで、その間に町と商店街という具が挟まっている感じ。鉢伏山では海と山が、世界には僕とあなたしかないのだというように向かい合っている。

夜、メリケンパークに新しく出来た噴水で水浴びさせる。
この場所では子供たちが皆、興奮して叫び、走り回っている。
見知らぬ子供の大声に心がやすらいだ。

夜、メリケンパークに新しく出来た噴水で水浴びさせる。
この場所では子供たちが皆、興奮して叫び、走り回っている。
見知らぬ子供の大声に心がやすらいだ。

某日。朝、強い揺れで目が覚める。スマートフォンからけたたましい警報音がなっている。妻はとっさに子供をかばい、私は犬をかばっていた。外へ出れば何事もないように静かに時間が流れているが、商店街に出かけると行く店行く店で、朝の揺れが話題になっている。公園に寄るとなじみの店のお母さんが座っていたのでしばらく話し込んだ。市場の現状や、これからのお店のこと。明るい未来だけが約束されているわけではない。悲観的な話しになっても、「まあ下むいててもしゃあない、行くか!」と最後はどこか投げやりに、笑顔で立ち去るお母さんに、私もつとめて明るく「ほなッ」と手をふる。私がいま見ている景色、市場の活気も子供の日々の成長も、不変のものではない。蜜月はどこかで必ず終わりが来る。いつでも自分はこの一瞬をたまたま生きているだけなのだと言い聞かせている。クレーンゲームに100円を入れ、目当てのアメをとってやると、子供は大喜びで商店街を駆けて行く。買ってやった恐竜リュックにはもうすっかり飽きているけれど。