『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』は2017年5月から2019年4月まで本ブログ管理者である平民金子が執筆し神戸市広報課サイトにて連載されたコンテンツです。現在神戸市広報課サイトに本コンテンツは掲載されておりませんので、このたび神戸市さんのご好意により本ブログへの転載許可を頂きました。記事の著作権は神戸市にありますが、書かれた内容についてはすべて執筆者にお問い合わせ下さい。本コンテンツに大幅に加筆をした『ごろごろ、神戸。』が株式会社ぴあより出版されています。そちらもよろしくお願いします。

第40回 摩耶山の思い出

運動習慣がなくなって久しい。せっかく山が身近にあるのだから元気に山登りしたいという欲求はあるのだが、しかしいつも駅やバスを降りた真横でケーブルカーが「どうぞどうぞ」と待っていては、それに乗ってしまうのが人間というもの。毎朝母親に起こしてもらっていると子供がいつまでも1人で起きられないように、運動に対する意識だけは高くても毎回ケーブルカーに助けられていては体力もつかない。そんな中、2月23日から3月9日までの15日間、なんと摩耶山のふもとから掬星台(きくせいだい)までをつなぐ摩耶ビューライン(ケーブルカーとロープウェー)が定期点検のために運休になっているという。これは母親にたとえると、なんでもやってくれるオカンがしばらく湯治に出かけたようなものである。このタイミングしかない。かあちゃんおれ、もう1人で起きられるよ。というわけでJR灘駅で降りて乗るのはご存知、坂バスである。

登山口までは駅から歩いても行けるので、運動したいなら歩けばいいやんという意見もあるかもしれない。しかし無理にスター・ウォーズに例えると、摩耶山デス・スターとするならば坂バスはミレニアム・ファルコン。この例えは映画に詳しくて書いたわけではなく、なんとなくそう言ってみたくて書いただけなので、間違っている気がする。別の例えで言うと坂バスは、母が湯治でいない中「山上までは行かれへんけどケーブル下までは乗っていき!」と言ってくれる親切なおばちゃんのような存在だ。座席に深く腰をかけ、移りゆく景色を眺めながら「出発する前から膝が痛い。来なければよかった」と考えていると、10分ほどで登山口すぐ近くの摩耶ケーブル下まで運んでくれる。降りるとそこには外国人観光客の家族連れがいて、シャッターの降りた駅舎を見上げて困った様子だ。

私にしてみれば計算済みの運休も、彼らにとっては悲しいアクシデントだろう。しかし旅にこういったトラブルはつきもの、なんとか立ち直ってほしいと願いながらも、キャナイヘルプユー?ウェアドゥユーゴー?などといい加減な英語で話しかけると「六甲山はどう行きますか?」と片言の日本語で返事をしてくれる。小さな子供がいるので歩くのはキビしいだろうとスマホで道順を調べて、たぶん合っているであろうルートを教え、ふたたびバスに乗っていく彼らに大げさに手を降っていると、私はなんだかもう、すべてを成し遂げたような達成感につつまれた。メキシコのよくわからない村で道に迷っていた私をバス停まで連れて行ってくれたおじさんもこんな気分だったのだろうか。もしここで目の前に酒の自販機があったなら、間違いなく彼らの旅の安全を願ってビールを飲んでいたところだ。

それにしても、坂道というのは見ているだけでしんどい。気が滅入る。じゃあ何しに来たのだ問われたらこう答えよう。牛丼を食べにきたのだ。
「キミにきめた!」と私はポケットモンスターの主人公であるサトシのセリフを真似して、歩き始めて最初に見かけたベンチでさっそく荷物を降ろし、昼食の準備にとりかかる。準備といってもフタを開けるだけである。時計を見るとまだ10時過ぎだが気にしない。見てほしい、太陽の光に輝くアウトドア牛丼の神々しさを。

すでに次のバスが到着しているのか、牛丼を食べていると他の登山者たちが続々に横を通りかかる。私は長かった夜勤労働者時代の仕事を終えた朝を思い出していた。あの頃、毎日少しの酒をひっかけて朝日をあびて部屋に帰る自分と、これから朝日をあびて仕事に行く人達との間には、なんだか少し気まずいような空気があったのだった。しかしなぜ、これから同じ山に登る仲間といってもいい彼らに対してこのようなうしろめたい気持ちが生まれるのかと考えると、やはり登山道の入口でいきなり牛丼を食べているからだろう。さて、と腰を上げると大盛りつゆだくを朝から腹に入れたため体が重く苦しい。時計を見るとバスを降りてからここまで一時間もかかっている。

五鬼城(ごきしろ)展望公園という、なんだか強そうで、ゴール地点のような名前の展望台に到着。眺めを見て一瞬、ここを「ほぼ掬星台」と名付けて到着したことにして、さっさと引き返そうという誘惑にかられる。もうじゅうぶん頑張った。
先日スマホのメモ帳アプリを起動して歩きながら音声入力していると(私はよくこの方法で原稿を書く)、何度「よじよんじゅうごふん(16時45分)」とつぶやいても「You got a New Yorker」と変換されて困った問題について考えた。その時は「おれの日本語って英語っぽい響きなのかな」とのんきに思っていたが、原因は単にどこかでボタンを押し間違えて入力モードが英語に切り替わっていたというだけなのだ。でも、どれだけ聞き取りにくい声だとしても「よじよんじゅうごふん」の響きの中に「New Yorker」のK音ってどこにある?

ベンチを見るたびにポケモンのサトシを召喚し、キミにきめた!と律儀に休憩している。休憩が目的か登山が目的かと聞かれれば、休憩が目的だと答える事が可能だ。しかしまだ道途中だというのにこの眺め。山をホームグラウンドにすると外界のあれやこれやがわりとどうでもよくなったりするのだろうか。あったかくなったら絶対にここで酒を飲んでやると固く決意する。その後も気づけばベンチの写真ばかり撮っている。

ケーブルカーとロープウェーの中継地点である「虹の駅」に到着した。バス停を出発してから二時間たっているが、これは私にしては相当早いペースで、このままだと当日中に掬星台に着いてしまうのではないかという懸念さえ覚える。私は人間相手には無愛想だが、建物などの無生物相手には非常に義理堅い。だからしっかりと「いつもお世話になっています、ゆっくりお休みください」と駅舎に挨拶する。ここで今、ロープウェーが動いていたら100パーセントそれに乗って下山しただろう。

かつてこのあたりが比叡山高野山と並び称されるほどに栄えていた事、そして私が生まれたあたりの1976年に一帯の建物のほぼ全てが焼失した事など、何も知らない事だらけである。信仰心を持たない私でも、当時の火災によって一千年を超える生命活動を終え、それでもなお形だけが残り山原に屹立する摩耶の大杉を見上げると畏怖の気持ちが起こる。それにしても火災から奇跡的に残った山門をくぐって旧天上寺跡に続く石段の長いこと。私の感覚だと階段5段以上はタワーに分類されるので、これはもう、バベルの塔に登っているのと同じだ。

途中で思いついた事だが、道中はビニール袋を持って簡単なゴミを拾いながら歩くと目的が出来て退屈しない。私は普段は子連れで歩いているためビニール袋だけはリュックに過剰に入れているのである。簡単なゴミとわざわざ書いたのは、登山道に落ちている人工物を観察していると、廃屋などがあるためかガラス系の物がそれなりにあるので、そこは初心者はどう手を付けてよいのかわからないからだ。菓子パンの袋やチョコレートの箱やティッシュといった、どう考えても燃えるゴミだろうと判断できる物があればそれを拾って行く。それにしてもこの杉(?)の木、あまりにもキリンビールの瓶に似ていないだろうか。さっきから幹に差し込んだ光が麒麟のラベルに見えて仕方がない。これは私が単にビールを飲みたすぎて幻覚を見ているのだろうか。皆さんの判断をあおぎたい。キリンビールの木、どうだろう?

ビール飲みてえなチキショウ、ああビール飲みてえ。そんな呪文を繰り返し唱えているうちに、目的地である「星の駅」、掬星台に到着する。遠くのほうに点検中のロープウェーが見える。駅の2階にある「カフェ702」は点検中も土日だけはオープンしているので、カレーと特製スムージーを。これまでよりも苦労してこの場所に来たせいかカレーが体にしみる。しかしこれは単にカレーとスムージーを交互に口に入れた事によって知覚過敏で歯がしみていただけかもしれない。熱いものと冷たいものを同時に食べる時には用心が必要だ。

帰り道、生まれてはじめて野生のイノシシを見かけた。うわ!イノシシやんけ…!と思って急いで撮ったらピントがまったく合っていないが、親子3匹である。このあと立ち寄った飲み屋で店主にこの写真を見せ「今日イノシシはじめて見たんですよ!」と興奮気味に伝えると「これ石やろ?」とあっけない答え。
「石ちゃいますて」「石やて」「石ちゃいますて。親子で3匹いて」
というやり取りを、カウンターの他の客によって「山やったらイノシシくらいおるやろ」と冷静にまとめられ、ここから導き出されるのは、この件で興奮していたのは私だけという事実である。イノシシを見かけてはじめて神戸市民になれた…!そんな風に感動している自分とは温度差が違う。私も今日のこの興奮はなかった事にして、もし誰か若者から将来「イノシシ見たんです!」なんて言われた日には「それが神戸よ。神戸って、イノシシの町よ」くらいスマした顔で言ってやろうと思うのだ。