『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』は2017年5月から2019年4月まで本ブログ管理者である平民金子が執筆し神戸市広報課サイトにて連載されたコンテンツです。現在神戸市広報課サイトに本コンテンツは掲載されておりませんので、このたび神戸市さんのご好意により本ブログへの転載許可を頂きました。記事の著作権は神戸市にありますが、書かれた内容についてはすべて執筆者にお問い合わせ下さい。本コンテンツに大幅に加筆をした『ごろごろ、神戸。』が株式会社ぴあより出版されています。そちらもよろしくお願いします。

第23回 「母親」を半分引き受ける

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初めての立ち飲み屋デビューは確か生後3か月くらいの頃。以来私は抱っこしながらであれベビーカーに乗せながらであれ、ホルモン屋や串かつ屋、寿司屋に焼き肉屋、さまざまな「酒の飲める場所」に子供を連れて行っている。飲みに出かける回数自体は激減してしまったが、子供がいるからといって行動範囲が制限されてしまうのもシャクだなと思い、なるべくどこにでも子連れで行くようにしているのだ。もちろん混雑している時に行くのは他の酔客や私の子供、どちらのためにもならないので避けるが、さいわい近所には朝から開いている酒場がたくさんあるから、すいている時間帯を狙って店の前にベビーカーを横付けし一杯ひっかける。関西特有の気安さか、神戸では赤ちゃん連れで入れる店を探すのに困る事もなく、こんな所に連れてきて…などと言われた事は今まで一度もない。

というような話を先日、その日は灘区の水道筋にある串かつ屋「一燈園」に子供を連れて行った帰りに、家で妻にしていたところ、「でも、そういうのは男親だから出来る事だよね」という話になった。たしかに、酒場のカウンターに並んで腰をかけ、子供にはスマホアンパンマンを見せ、親は横でビールを飲んでいる。そんな光景は私がやれば「父子のほほえましい図」として処理されるが、同じ事を妻がやるには相当な勇気がいる。缶チューハイを手に持って幼児と歩くお父さんは許されても、缶チューハイを手に持って幼児と歩くお母さんは許されにくい。
男親の場合と違い、女性というのは子連れで歩いていると、一挙手一投足まで「母親らしさ」で評価されてしまうから、そんな「らしさ」のイメージから少しでもはみ出してしまうと大変だ。

この2年ほどでつくづく感じたのだが、世間の目は、育児に関わる父親にはすこぶる優しい。
抱っこしているだけで褒められ、1人で外に連れ出しては褒められ、子供を抱いて買い物袋でもぶらさげて歩けば聖人のように見られたりする。それは私としては別に文句を言われているわけでもないのでラッキーなのだが、しかし同時に、いま目の前を通り過ぎた母親は私と同じ事をやっているのに誰からも褒められたりはしないわけで、ずっと疑問だったのだ。父親の育児評価は0点が基本からの加点方式なのに対し、母親の育児評価は100点が基本からの減点方式なのはなぜなんだろう。世の中は、母親に対して厳しい目を向けすぎなのではないだろうか。

私は自分自身に課したルールとして、妻が子育てする事によって出来なくなる事は自分もしないと決めている。
もし子供がいるから酒を飲みに行けなくなったのなら、私も行ってはいけない。子育てで忙しくゲームをする時間がなくなったのなら私もしてはいけない。
これは非常に窮屈なように見えるかもしれないが、このルールを厳格に適用するとどうなるかというと、なんとかして自分が自由時間で外に出て酒を飲みに行くために、まず妻の自由時間を確保する努力を最優先でするようになる。妻が1人で自由に動ける時間を作らないと、私自身が何も出来なくなるから必死である。
「遊びに行ってきたら?」「飲みに行ってきたら?」「旅行にでも行ってきたら?」
私は自分が自由になるためにせっせと家事育児をこなすが、それは同時に、妻がともすれば1人で背負ってしまおうとする「母親」という役割を半分、自分にも引き寄せる事でもある。おれにも母親やらせてくれよ、と。

言葉遊びのようになってしまうが、これは「父親としてもっと家事を手伝う」とか、父親らしさの変形としての「イクメン」といった話ではない。私たちは、育児に関しては父親であることよりも、「母親」という大役をいくらかでも分担する事を考えた方がいいんじゃないだろうか。
すべての母親よ、家を出て酒場に!着飾って踊りに! なんて無責任な事は言えないけれど(それをする困難さは簡単に想像できるし、そもそも男の私に余計な事を言われたくなんてないだろう)、その程度の自由は当たり前の事として保証されたほうがこれからの時代は子育てもしやすい。

幼児と過ごすのはとても体力と精神力の必要な作業だ。
私は性別的には父親であるが、役割的には半分は母親でありたい。
子育てに関するよろこびもしんどさも、分け合えるものはすべて均等に分け合いたいと思うからだ。