『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』は2017年5月から2019年4月まで本ブログ管理者である平民金子が執筆し神戸市広報課サイトにて連載されたコンテンツです。現在神戸市広報課サイトに本コンテンツは掲載されておりませんので、このたび神戸市さんのご好意により本ブログへの転載許可を頂きました。記事の著作権は神戸市にありますが、書かれた内容についてはすべて執筆者にお問い合わせ下さい。本コンテンツに大幅に加筆をした『ごろごろ、神戸。』が株式会社ぴあより出版されています。そちらもよろしくお願いします。

第25回 届かない感じ

妻が知人の結婚式に出る準備を始めている横で、「結婚式といえばライスシャワーやなあ」などと適当な事をつぶやいていると、なぜ普段から冠婚葬祭の行事には一切参加しようとしないあなたがライスシャワーなんていうシャレた言葉を知っているのか、と驚いてたずねてきたので、私はそこで「何回走ってもライバルが強すぎて2着ばっかりの馬がおってやな」と今から25年前の、私が十代の頃に活躍した一頭の競走馬の名前を挙げる。長年競馬を見ている人ならばその縁起の良い名とともに、栄光が一瞬でくずれ落ちるような悲惨な最期を迎えたこの馬を覚えている人も多いだろう。1989年に生まれた黒鹿毛の、牡馬(雄)にしては小柄な430キロ台の馬体。同世代には坂路調教で鍛えあげられた500キロ近い重戦車のような、圧倒的な強さを誇るミホノブルボンがいた。私は当時学校の勉強もせずにサラブレッド血統辞典や競馬四季報、各種情報誌や競馬新聞を読みあさって、持てる時間のほとんどを競馬に費やしていた。そして圧倒的な走りを見せる無敗の王者ミホノブルボンに対し、何度戦いを挑んでも届かない、ライスシャワーに強く惹かれていたのだ。

2頭を比べると大人と子供のような体格差。両馬が初めて対戦した3月のスプリングステークスでも4月の皐月賞でもデビューから無敗のまま先頭でゴールし続けるミホノブルボンの姿は遥かに遠く、勝てる見込みなどありそうもない。しかし大差は開いたものの5月の日本ダービーではついにライスシャワーミホノブルボンの姿をとらえ2着に食い込む。そして休養を挟んだ10月の京都新聞杯、着順こそ同じ2着だったが、ブルボンの姿は一馬身ほど先、すぐそこにあった。今は無理かもしれないけれどいつか絶対にライスシャワーミホノブルボンをかわしその鼻先をゴールさせる日がくる、そんな勝利の可能性にとりつかれていた私は11月、その年の3歳馬の頂点を決める菊花賞京都競馬場の大観衆の中で見つめていた。私は前走と同じく今度こそ俺のライスシャワーがブルボンの鼻を明かしてくれるはずだと信じ、レース開始のファンファーレに鳥肌を立てながら手に汗をかき、競馬新聞を握りしめていた。そしてついにスタートから終始好位置でミホノブルボンをマークしたライスシャワーが見事に直線で差し切って優勝する。その日はミホノブルボンの無敗のままのクラシック三冠達成という大記録がかかっていたため場内は騒然とし、大記録に水を差したライスシャワーに対し罵声までとんでいた。私はこぶしを握りしめて興奮しライスシャワーの名を叫んだ。次はお前ががんばれよ、とでも言われているような気分だった。

「なんべん走っても勝たれへん。万年2着馬のライスシャワー菊花賞だけは違ったんや」
私はたよりない記憶だけで妻にそんな話をしていたのだが、話し終わってから不安に思いインターネットで記録を調べてみると、ライスシャワーは全部で25戦している内で2着になったのはたったの5回(そのうち4度はミホノブルボンに負けている)。生涯でG1レースも含めて6勝しているので2着よりも1着になった数の方が多く、時間がたって都合良く捏造された記憶とはいえ「万年2着馬のライスシャワー」などというのはずいぶん失礼な話だった。
私はといえば、高校を卒業したらすぐに住み込める牧場を探し厩務員学校への入学を目指すつもりでいたのに、ふとした偶然から競走馬ではなくボブ・ディラン友部正人という2人の歌手に夢中になり、競馬の世界とはまったく違う音楽の世界に憧れをもつようになった。翌1995年には阪神・淡路大震災があって、同じ年の春、旅行に出かけた先の上海の安宿で有名な宗教団体が起こした無差別テロ事件を知る。その頃6歳になっていたライスシャワーは、前年からのスランプや怪我で勝利から遠ざかり引退が噂されながらも4月の天皇賞で2年ぶりの復活勝利、そして最期のレースとなる宝塚記念に出走した。その年は震災で阪神競馬場が使えなくなっており、高校時代の私が無我夢中で彼の名を叫んだ京都競馬場での開催となった。私はその頃には徐々に競馬への熱を失いかけていて、もう競馬がなくても自分は十分やっていけると思っていて、あれだけ頭の中がいっぱいだったライスシャワーの事も少しずつ忘れはじめていて、そして翌日のスポーツ新聞で彼の身に起こった事故を知った。

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金曜日に用事があって、元町駅の周辺を県庁方面に向かってうろうろしていると、駅から少し歩いた先にある相楽園ではちょうど菊花展が開催されており、それに合わせて敷地内にある普段は非公開となっている洋館、旧ハッサム邸も開放されている事を知り、ちょうど子供の弁当を食べる場所を探していたこともあって中へ入った。相楽園には明治時代に建てられた旧小寺家厩舎も当時の姿で残されており、場内に飾られたたくさんの菊の花や立派な厩舎を目にすると、もうずっと競馬は見ていないにも関わらず私はつい、この季節に開催される菊花賞を連想してしまう。遠藤賢司が久しぶりのフルアルバムを出し、俺は負けない、君だけには負けたくはないと歌った約20年前、私にはそれがライスシャワーミホノブルボンの関係のようにも思えた。『俺は勝つ』は誰を呪うわけでもなく、ライバルを称えそして自分を鼓舞するためにうたわれる祈りのような歌だが、私はライバルに対していっそ消えてしまえと願うどす黒い感情を持つ自分自身を投影させて都合良く解釈していた。ブルボンさえいなければ俺はダービー馬だったのに。あいつさえ、あいつさえいなければ俺はもっと輝けるのに。それは当時の私が親友に対して抱いていた身勝手な屈折、あこがれや憎悪そのもので、結局私は自分自身が抱える「届かない感じ」を持て余し、それを身勝手にライスシャワーに重ねていたにすぎない。

今でも私の中でライスシャワー号は、菊の季節に京都競馬場の直線を1着で駆け抜ける姿のままだ。
彼の永遠のライバルであるミホノブルボンは、余生を過ごしていた北海道の牧場で今年の2月に静かに亡くなった。
自分の人生の「届かない感じ」にケリをつける事。
過去にあれほどとらわれたそんな問題も、時が過ぎる中で私はすっかり忘れてしまっていた。

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